2011.11.25.
16:30〜18:00は,岡山オルガノンの将来構想委員会
18:00〜19:30(実際には20時前まで)は,大学コンソーシアム岡山の企画会議
本当は,その前にもオルガノンの双方向コンテンツ委員会があったのですが,その時間帯は大学で現在受けている研究委託金である「特別電源所在県科学技術振興事業:ものづくり重点4分野に関する基盤技術研究」の中間報告ヒアリングがあったので,3連続にはならなかったのですが・・・・
ずっと,岡山商科大学でした。

今週はめっきり冷え込むようになって。。。。秋が一杯です。
なんだか,商科大学さんの四季をたくさん見た年ですが・・・。
丁度,学生さんも講義が終わった頃でした。
図書館のある棟で会議は行われます。グランドでは野球部が練習中・・・大学コンソーシアムの大きなポスターもありました。
すでに外も黄昏時のあやうさを感じさせていますが・・・さて,会議です。
  

それでも,ちょっと時間を作って「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」です。
岡山市庭瀬の「犬養本堂生家」です。
庭の真ん中に柿の木が・・・・
【犬養 毅(いぬかい つよし、1855年6月4日(安政2年4月20日) - 1932年(昭和7年)5月15日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂、子遠。中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第13・31代)、逓信大臣(第27・29代)、内閣総理大臣(第29代)、外務大臣(第45代)、内務大臣(第50代)などを歴任した。】です。
【備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山県岡山市北区川入)で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男としてうまれる(後に犬養と改姓)。1876年(明治9年)に上京して慶應義塾に入学し、一時共慣義塾、二松學舍(現二松學舍大学)にも通い、1880年(明治13年)慶應義塾大学卒業前に栗本鋤雲に誘われて記者となる。慶應義塾在学中に、郵便報知新聞(後の報知新聞)の記者として西南戦争に従軍(ちなみに、抜刀隊が「戊辰の復讐!」と叫びながら突撃した事実は、一説には犬養の取材によるものとも言われている)。明治10年代はじめ頃に『東海経済新報』の中心として保護主義経済を表明している(田口卯吉らの『東京経済雑誌』は自由主義を表明し論戦となった)。統計院権少書記官をへて、1882年(明治16年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、大同団結運動などで活躍する。】です。
  
ここは,以前,ボーイスカウトの(形だけでしたが)指導者をしていた頃に,日曜に子供たちと清掃したりもしました。
生家の先には,記念館がありますが・・・今日は時間がないので・・・スルーです。
今日は,駆け足で,秋を感じておきましょう!
    
鮮やかに色づいています。
近くの畑には,大きな柑橘系も・・・・