2011.7.26〜27

7/26は日本免疫毒性学会の運営委員会(渋谷)
7/27は日本臨床環境医学会の編集委員会(高輪)でした。

で,1日目,早目に上京して,すこし「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」してきました。

武蔵小山から少し徒歩して,「林試の森公園」です。
行く途中の路地にお地蔵さんもいらっしゃいましたが・・・。
まぁ,ひたすらに緑です。
暑い日です,亀さんたちも,ひなたぼっこですが・・・乾いてしまうのでは? って心配します。
途中の「ジャブジャブ広場」では,子供たちが元気一杯です。
ちなみに【1900年6月に農商務省林野整理局が「目黒試験苗圃」を設置した。その後、林野庁「林業試験場」に名称を変更し、1978年まで使用された。林業試験場がつくば市に移転したことに伴い、公園として整備され、1989年6月1日に「都立林試の森公園」として開園した。開園面積は120,762平方メートル(約36,000坪)である。】です。
なので・・・本当に,緑ばっかりではありますが・・・・。
なんていういか,「林業試験場」ですので,海外の樹木も多い様です(って全然,詳しくないのですが)。
広場では,お年寄りたちも,ゲートボールで元気一杯です。
【園内:林業試験場当時の樹木がそのまま残されており、都内でも屈指のケヤキ、クスノキ、プラタナス、ポプラ、スズカケノキなどの巨木がある。その他、カイノキ、ベニカエデ、ヒマラヤゴヨウ等の外国産樹木やアベマキ、ハナガガシ、ニオイドロ等の珍しい木などもあり解説のプレートもつけられている。園内で最も太い木は幹周が3.82メートルのケヤキ。最も高い木は高さ35.5メートルのポプラ。大木の揃った森の他、芝生広場、デイキャンプ施設、夏期に子供が入れるじゃぶじゃぶ池、西側には野球やサッカーの練習(要申込で試合は不可)にも使用できるグラウンドも整備されている。】ということです。
確かに広場も多くって・・・あと,ランニングをしている人もたくさんいました。
曇りがちの日でしたが,途中,青空も見えてきました。
いろんな緑色の織り成す模様が素敵です。
【珍しい樹木:他の公園ではあまりお目にかかれない樹木が多くあり、樹木観察には最適の地です。絶滅危惧種のハナガカシをはじめ、ヨコグラノキ、ナナメノキ、クロキといった日本の珍しい樹木やカイノキ、シナユリノキ、ユサン、アメリカトネリコなど外国産樹木の観察が楽しめます。】だそうです・・・といいつつ,大槻には,ちょっとよく分かりませんし,木々の案内板については,今回は,写真も省略させてもらいました。
そして,ちゃんと碑もあります。
【巨樹:100年以上の歴史から、幹回り3mを超える樹木が数多くあり、ケヤキ、クスノキ、ポプラ、スズカケノキなどが空高くスカイラインを構成。なかでも芝生広場の「大きなクスノキ」は圧倒的な景観を呈しており、この公園のシンボルツリーとなっています。】だそうです。
そして,犬のお散歩もたくさん行き来されていました。
このあたりにはると,本当に外来種が多い印象です。
猫ちゃんも居ました。
【野草:林床にも珍しい植物が成育しています。ウ、キチジョウソウ、ツルニチニチソウなどの群落をはじめ、カントウタンポポ、タチツボスミレ、ジュウニヒトエといった植物もみられます。 】という案内ですが,これはもう,全然,わかりません・・・残念ながら・・。
それでも,都会の中で,緑に浸るっていうのは,いいことです!
ぐるりと回って,また,池の傍に来ました。
さっき渡った橋の下をくぐり抜けます。
こっちの方は,人気も少ないっす。
ちょっと明るい方向では,保育園児たちかな? 元気ですね。
花は少ないので・・・時々見かけると,ちょっと,なんていうか,ほっとする感じです。
管理センターの所には,竹垣が・・。
広場でのゲートボールも終了した様子でした。
西門ら,ぐるりと回って・・・東門へ最後,向かいました。
【外国産樹木:園内には約60種の外国産樹木があり、専門家も立ち止まって考え込む程。チンタオトゲナシニセアカシアなど長い名前をもつものや、トチュウなど聞きなれないものもあります。特に東門の一画は外国産針葉樹の見本園的な配植になっています 】,確かに・・・そんな感じ(詳しくないけど)でした。
東門の所にも,井戸が(ハイカラな)あって・・・花壇もありまた。

で,まだ時間があるので・・・地図を片手に・・・東急目黒線の不動前駅を超えて超えて・・・「氷川神社」へ!
正面鳥居ではない方から入ってしまいましたが・・・。
「是より南海道」ですって・・・あれ,南海道って・・・【五畿八道の一つで、紀伊半島、淡路島、四国、列びにこれらの周辺諸島を指す。】なのに・・・?
おとなりには,お稲荷さんです。忍田稲荷です。
氷川神社は,たくさんありますが・・・【氷川神社(ひかわじんじゃ)は、スサノオを主祭神とする氷川信仰の神社。旧武蔵国(埼玉県、東京都)の荒川流域を中心として200以上、氷川を冠するものを含めれば260以上があり、簸川神社と書く神社もある。】だそうです。
勇壮で子連れ狛犬です。
そして,勤王の獅子たちの名残も・・・。
さて,いわゆる,正門から出ました・・・

まだ,時間もあったので・・・その横の安楽寺さんです。
瀟洒なお寺さんでした。【当山は比叡山延暦寺の直末にして、 松園山寶林院安樂寺と云い、 今より 440余年前足利義輝の時代弘治2年に大僧都良珊和尚が開かれたもので、 現住職で31世代目にあたります。 御本尊は阿弥陀三尊仏で、 戦災により、 観音・勢至両菩薩の脇仏は焼失まししたが、 品川名誉区民の石井鉄太郎様ご夫妻の寄進により復元しました。当寺の置かれている環境は、 目黒川の流れに臨み、 武蔵野台地のはずれに位置し、 人々の生活に欠くべかざる水に恵まれ、 境内には70坪余りの自然水による池が現存し、 当寺の使用する水は井戸水にて間に合い、 昔は湧水を飲料水として谷山村等の近隣に引き水をしていたと云われ、 それに使用された木管が堀出されたこともあります。 池畔には萩が生い茂り別名 「萩の寺」 とも称されていた由です。徳川時代に於いては、 勅使が江戸参向の折り、 品川宿に泊られた時に、 火災等非常事態が生じた際には、 当寺本堂を御立退き場と定められていました。 故に本堂の造りは 玉座の造りに準じた 「上段の間造り」 にて、 門前に薙形の高札を立てていました。 又 徳川時代の中期より明治の中頃までは、 今の新橋より芝大門、 高輪村及び当寺近隣の村落にかけて一大念仏講を組織し、 毎年10月15日の十夜念仏は盛大を極め、 門前には市が出来、 近隣の善男善女が集まり、 今のレクリエーションの役割をはたしていました。 往古は隣の氷川神社をはじめ、 八幡社、 稲森社の別当として支配していましたが、 明治初年の神仏分離によって、 各々独立しました。 従前の本堂庫裏は 250余年前の建立なりしも、 昭和20年5月、 戦災により、 本尊仏及び過去帳を除きことごとく焼失しましたが、 檀信徒一致の協力により昭和30年復興がなり、今日の景観を見るに到りました。 平成5年1月別院を新築し、 尚別院本堂は葬儀を厳修出来る様式を加味し、 有縁の檀信徒の用に供するようにしました。 】だそうです。
そして,「連理塚」:【皆様ご存知の白井権八、小紫の墓所で、 目黒にあった虚無僧寺が廃寺になりそこにあった墓を明治19年に、 檀徒の要請により移転したもので、 位牌等があったが、 戦災により焼失、 戦前は歌舞伎上演の折は役者衆の参詣が恒例になっていました。 】だそうです。
  
【江戸時代の情話の主人公。そのモデルとなった平井権八(1679年没か)は鳥取藩士だった父の敵本庄助太夫を討って江戸へ出奔,吉原三浦屋の遊女小紫と馴染み,金策のため辻斬り百三十余名におよび,品川で獄門となった。目黒不動前の比翼塚に残る小紫との情話はこの実説に基づくが,歌舞伎「鈴ケ森」(4代目鶴屋南北作1823年初演「浮世柄比翼稲妻」の一場面)などで知られる侠客幡随院長兵衛との関係は年代も食い違い,まったくの虚構らしい。しかし通言に「権八」といえば居候を指すように,権八が長兵衛の食客になっていたという話は人口に膾炙していた。古い狂言だと長兵衛は男色者であり,そこから二枚目の若衆役である権八と結びつく筋が生まれたと思われる。 】ですって。
  
お寺の前には,稲荷神社もありました。

そこから目黒の方へ・・・目黒川を超えます。
 
ただ杉野服飾学園へ行く所の坂は,ハンパじゃなかったです。
そして,博物館には,徳川家ゆかりの「塔」も・・・。

今回は,久しぶりに飛行機での往復でした。
 
帰路では,所々で,晴れ間も・・・揺れたりもしましたが・・・。
知多半島,中部国際空港,鳥羽,四日市の辺りです。
神戸,有馬温泉の北側,加古川・・・の辺りです。
  
そして,家島諸島・・・これは北側から見ているので,左(東)の地肌一杯が,男鹿島,真ん中が,家島,西は西島です。遠くは小豆島!