2011.7.13.
岡山商科大学で,大学コンソーシアム岡山の「就職支援委員会」
うちの大学は医科単科なので,あまり縁もないのですが,都合が付くなら参加ってことです。
主に,各大学の就職支援センターなどの方が中心で・・・理大の木村先生や商大の大ア先生は,顔なじみですが・・・。
商大の井尻記念館でありました。4Fなのですが,階段です(ちょっと暑い)
商大も夏模様ですね・・・・・大学連携や産学官連携で・・・商大と理大さんには,よく来ます!


さて,今日の「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」は・・・

ちょっと遠回りだったのですが,高松城水攻めの跡に行ってきました。
戦国時代の歴史に名高い秀吉の水攻めです。
【備中高松城の戦いは、天正10年(1582年)に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中国高松城を攻略した戦い。秀吉は高松城を水攻めによって包囲していたが、その最中に主君である織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が起き、その報を聞いた秀吉はただちに毛利方と和睦を結んで、城主清水宗治の切腹を見届けた後、明智光秀を討つために軍を京のある山城国へ返した。】ですよ!
  
この地図を見ると今の大学の処も「松島城」です。当時は山城ですし,小高い丘ですから・・・。
今日は,この史跡公園の周囲は,見渡す限りの夏空です。
この山がちょっと出っ張った処が・・・当時の「蛙ヶ鼻堰堤跡」です。
【宇喜多秀家が領していた備前岡山から先は毛利の勢力範囲であったため、織田軍と毛利軍は備前・備中国境地帯で攻防を繰り広げることとなった。天正10年(1582年)3月15日、秀吉はついに姫路城から備中へ向け2万の軍勢をひきつれて出陣。途中、宇喜多氏のかつての居城であった亀山城(別名:沼城、ぬまじょう)(現:岡山市東区)で宇喜多氏の動向を探り、宇喜多氏が織田軍に味方することを確認、宇喜多勢1万を加えて総勢3万の軍勢で備中へ入る。備中高松城は当時数少なかった低湿地を利用した平城(沼城、ぬまじろ)であり、鉄砲・騎馬戦法にも強かった。城を守るのは清水長左衛門尉宗治で、3,000余りの兵が立てこもり、容易には攻め落とせる状況ではなかった。そのため、秀吉は周囲の小城を次々と攻め落とし、備中高松城を包囲する作戦をとった。4月15日、秀吉方は宇喜多勢を先鋒に3万近い大軍で城を包囲した。そして2回にわたって攻撃を加えたが、城兵の逆襲を受けて敗退した。さらに、毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあり、秀吉は甲斐武田氏を滅亡させたばかりの主君・信長に対して援軍を送るよう使者を向かわせた。信長からは丹波を平定させた明智光秀の軍を送るとの返事を得たものの、1日も早く備中高松城を落城させよという厳しい命が下り、秀吉が不安と焦りに駆られていたころ、黒田孝高が水攻めの策を進言した。この水攻めの策は中国の春秋時代に晋の智伯が晋陽城を水攻めしたことからヒントを得たと考えられ、低湿地にある沼城の利点を逆手に取ったまさに奇策であった。秀吉はこの奇策を受け入れ、即座に堤防工事に着手した。この堤防は門前村(現:JR吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻(石井山南麓)までの東南約4キロメートル、高さ8メートル、底部24メートル、上幅12メートルにわたる堅固な長堤を造り、足守川の水をせきとめようとするものであった。築堤奉行には蜂須賀正勝が任命され、宇喜多忠家が黒田孝高の指導のもと難所の門前村から下出田村までを担当。原古才村を蜂須賀氏が、松井から本小山までを堀尾吉晴、生駒親正、木下備中、桑山重晴、戸田正治らが、蛙ヶ鼻より先を但馬衆が担当することとなり、浅野長政は船や船頭を集めて備中高松城が湖に浮かぶ島になった際の城攻めの準備にあたった。工事には士卒や農民らを動員し、1俵に付き銭100文、米1升という当時としては非常に高額な報酬を与えた。『武将感状記』によると、築堤の総経費は63万5,040貫文、米6万3,504石という莫大なものとなった。堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成し、折しも梅雨の時期にあたって降り続いた雨によって足守川が増水して200haもの湖が出現。高松城は孤島と化してしまった。堤防を完成させた秀吉は堤防の上に見張り場を設けて城内の様子を監視した。一方、城内では水攻めという奇想天外な戦法に動揺し、物資の補給路を断たれて兵糧米が少なくなったことと、小早川隆景、吉川元春ら毛利の援軍が来ないことも相まって兵の士気は低下していた。毛利の援軍は秀吉の築いた湖を前にして身動きがつかず、さらに信長の援軍が送られてくることから、秀吉との講和を決意することとなった。】と,長い引用ですが・・・。
小学校くらいで知ったかしら? なんか,奇襲っていうか,策略ってのに,感心した覚えがあります。
それでもそんなに簡単には,いきなり今思っても,広大は水没地域を作れたって思えないのですが・・・。梅雨だったのでしょうけれど・・・・。
堤の上には,碑もありました。説明板も・・・。
奇想天外っていえば,確かにそうでしょう!
【毛利方は軍僧の安国寺恵瓊を黒田孝高のもとに派遣し、「五国割譲と城兵の生命保全」の条件で和議を提示した。しかし、秀吉はこれを拒否して「五国割譲と城主清水宗治の切腹」を要求したため、交渉はいったん物別れに終わった。毛利方は清水宗治に対して救援の不可能なことと、秀吉に降伏するべきという旨を伝えたが、宗治は自分の命を城とともにしたいとしてこれを拒否する。毛利方は安国寺恵瓊を高松城に送り込んで説得を試みたが、宗治は主家である毛利家と城内の兵の命が助かるなら自分の首はいとも安いと述べ、自らと兄である月清と家臣の難波伝兵衛、末近左衛門の4人の首を差し出す代わりに籠城者の命を助けるようにという嘆願書を書き、安国寺恵瓊に託した。ちょうどこの時(6月3日夜)、秀吉方は明智光秀から毛利方に送られた使者を捕らえ、信長が明智光秀の謀反によって京都の本能寺で落命したという密書を手にする。秀吉はすぐに黒田孝高と合議し、一刻も早く毛利と和睦して明智光秀を討つべく上洛する方針を固める。秀吉方は信長落命によって秀吉が後ろ盾を失った状態であることを毛利方に知られないように徹底的に信長落命の事実を隠匿した。翌6月4日に秀吉は安国寺恵瓊を呼び、割地を河辺川(高梁川)と八幡川以東とし、清水宗治自刃を和睦条件として提示した。毛利方はやむなくこの条件を受け入れ、ここに和睦が成立した。清水宗治は秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行い、城内の清掃などを家臣に命じ、身なりを整えた。その後、宗治ら4人は秀吉から差し向けられた小舟に乗って秀吉の本陣まで漕ぎ、杯を交わした。そして舞を踊った後、『浮世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の 苔に残して』という辞世の句をしたため、自害した。他3人も次々と自害を遂げた。秀吉は宗治を武士の鑑として賞賛し、6日には高松城に杉原家次を置いて山陽道を東へ向かった(中国大返し)。】です。滅びる者に美は寄り添いますね!
さて,ここから田畑越しに高松稲荷の大鳥居がよく見えます。
【高松稲荷交差点(国道180号と岡山県道241号長野高松線の交点)近くの最上稲荷への参道に昭和47年(1972年)に建立され、高さ27.5m、柱の直径4.6m、総重量2800トンで、全国でも屈指の規模を誇る。】ですよ!
確かに,高くってでかいです。
  
公園の処には,ビオトープめいたのも・・・
   

さて,商大に向かっていって,楢津から首部に向かう辺りの道から,よく見えます。
    
この辺りも夏で一杯です。
猛暑の梅雨明けです。東北以南は今日もとっても猛暑だとか・・・さらに,福島原発の問題で,電力制限! 普段から暑い環境に慣れていきましょうね。