2011.6.15.

ちょっとした用j用事で岡山川崎病院(川崎医科大学附属)に出向きました。
 
多分,5年生で実習に来て以来かも・・入るのは。。。。

その後,岡山商科大学で,大学コンソーシアム岡山の会議でした。
 
この日の夕方は,慶応大学のサテライト講座もされていたのですね。
事務局は,商大・大ア先生です。
コンソーシアムの関係で,また,岡山オルガノンの関係でも,よく来ますね!

その合間に・・・岡山県立図書館の向かいの,烏城みち沿い・・・内堀の所です。
この辺りは,「岡山カルチャーゾーン」です。
県立図書館は,【1999年3月に閉校した岡山市立丸之内中学校(現在は岡山市立岡山中央中学校に統廃合)の校舎跡地に建設され、2004年9月に開館された。岡山県庁前という好立地が奏功し日本でも屈指の貸出率を誇っており、日本図書館協会の調べによると2005年から2007年度の入館者数および貸出冊数は3年連続で全国トップである[1]。特に2006年度、2007年度では全国で唯一100万人を越える入館者数を記録している[2][3]。休日には入口から近くの道路に車の行列ができるほどの大盛況である。駐車場はかつては無料であったが(2時間まで、それ以上は再度認証を受けると閉館まで使用可能)、県財政の悪化に伴い2010年9月1日から有料化された(1時間までは無料、以後1時間ごとに100円加算)。インターネットから書籍の検索及び、貸出の予約をすることができる。その際は直接県立図書館へ行かなくても、近くの公共図書館から書籍の貸出と返却を行うことが可能である[4]。ほかにも岡山県内の他の図書館の書籍を検索できる「横断検索システム」や、デジタル岡山大百科などの運営も行っている。】です。
この駐車場横の芝生だけでも,気持ちが安らぎます。
きっと,白ネコちゃんも・・・
山羽虎夫氏の像です。【まだ多くの日本人が自動車なるものを見たこともない時代、足踏み式旋盤とハンマーとスパナで、国産自動車第一号に挑んだ男、山羽虎夫。その車は確かに岡山でつくられ、岡山を走ったのです。】だそうです。
この碑は,中川横太郎氏【備前藩儒、中川亀之進の子として生まれる。漢学者の西薇山などに就いて学んだが、書物による学問が苦手で、一方で耳から聞くことの記憶力は抜群であったと伝えられる。また、馬術を得意とし、若い藩士への教授も行った。明治4年(1871年)、岡山県の学務・衛生担当となって以降、県内各地で小学校の設立整備を説き、大きな成果を挙げる。その他、閑谷学校の再興、岡山薬学校(現在の関西高校)の設立、さらに後の岡山大学病院となる岡山県公立病院の充実にも力を尽くした。また、講談師としての許可を得て、衛生啓蒙のための講談独演会を開くという手法で衛生思想の普及を行った。一方で、岡山における最初期のキリスト教布教活動を強力に推し進めている。しかしながら、愛人として囲っていた炭谷小梅(後に岡山孤児院の副院長となる)に男女の不純関係についてキリスト教上の問題を指摘されるようになると、怒ってキリスト教と絶縁し、炭谷小梅とも縁を切った。奇行の人物としても知られており、洋装のポケットにはいつも懐中時計と菓子があって、人前でも平気で菓子を食べていたという。また、榎本武揚や伊藤博文からの手紙を受け取った時にも、先方からの手紙の意味がわからないから、先方にとってもわからない手紙を返すとして、記号のみの返事を送ったとされる。明治32年(1899年)には生前葬を行った。その香典は当時財政が逼迫していた山陽女学校へ寄付している。明治36年(1903年)、第五回内国勧業博覧会の視察の為大阪に滞在中、没した。67歳。】だそうです。
今年は,5月末から入梅で・・・今日も,どんよりです。
それでも,緑があふれてきていますね。
少し,城内へっていうか,本丸の方へ,ってずずずい〜って入りましょう!
県立図書館が真正面ですね。
お堀と緑とで,ちょっと気持ちを緩めましたが,さぁ,会議に向けていきましょう!