2011.6.7.
岡山県産学官連携推進センター第1回運営委員会でした。
 
太崎センター長(岡山商大副学長・・・大学コンソーシアム事務局長・・・よくお出会いしますね)もいつもながら御元気でした。
  
早々と梅雨にはってすっきり晴れない曇り空ですが,いつものテクノサポートです。
大安寺高校出身,筑波大の山海先生のHALの展示がありました。ロボットスーツです。

山間に・・・突然現れるってテクノサポートですね。
駐車場の裏は,山並みです・・・新緑と,花々が,それでも,気持ちを和ませます。
これまで,テクノサポートに来る時は,結構,好天だったのですが・・・。
  
人生,晴れる日もあれば,曇る日もあり・・・では,ありますが(ちょっと最近,身につまされます)

今日の「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」は大人の事情で・・・里庄町!
里庄町歴史民俗資料館です。
【里庄町歴史民俗資料館は、里庄町の長い歴史の中で使用されてきた様々な民具や、その生活を支えてきた大原焼、麦稈真田、そして私たちの心の支えであり、誇りでもある仁科芳雄博士、小川郷太郎博士の遺品を一同に展示している。】だそうです。
  
【明治9年(1876年)6月9日、岡山県浅口郡里庄町で村山菊蔵の長男として生まれる。岡山県医局長で医師の小川知彰の養子となり、岡山中学、開成中学、旧制第一高等学校を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学に入学。1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業して、大蔵省に入省する。翌1904年(明治37年)新設されたばかりの京都帝国大学経済学部に迎えられた。財政学研究のためヨーロッパに6年間に渡り、ドイツ、オーストリアなどで学んだ。帰朝後は京都帝国大学教授、同大経済学部長を歴任。1917年(大正6年)には法学博士号を授与された。大正6年に京都帝大在職のまま、京都市から第13回衆議院議員総選挙に立候補し、当選する(のちに岡山県に移る)。以後、当選8回。1924年(大正13年)には京都帝大を辞して、拓殖大学の学監に就任。また拓殖大学で教鞭もとった。政治家としては当初は新政会に所属し、のちに政友本党の結党に参加した。政友本党では政務調査会長を務める。政友本党と憲政会が合同して立憲民政党が結党されたのにともない民政党に入党し、民政党岡山県支部長、民政党政務調査会長。1929年(昭和4年)成立の濱口内閣で大蔵政務次官に任命される。1936年(昭和11年)廣田内閣の商工大臣、1940年(昭和15年)第2次近衛内閣の鉄道大臣を歴任した。第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)大政翼賛会の総務、ビルマ(現ミャンマー)のバー・モウ政権の最高顧問として同国に赴任し、財政再建にあたった。昭和20年4月1日、帰国途上、乗船していた汽船阿波丸が、東シナ海でアメリカ海軍の潜水艦によって撃沈され、70歳にて死去した(阿波丸事件)。1968年(昭和43年)6月23日に従三位勲一等旭日大綬章が追贈された。著書に『租税総論』、『財政学』、『交通経済論』、『税制整備論』等がある。漢詩を良くした。】です。
そして・・・
  
【仁科 芳雄(にしな よしお、1890年(明治23年)12月6日 - 1951年(昭和26年)1月10日)は、日本の物理学者である。岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。日本の現代物理学の父である。死去から4年後の1955年、原子物理学とその応用分野の振興を目的として仁科記念財団が設立された。この財団では毎年、原子物理学とその応用に関して著しい業績を上げた研究者に仁科記念賞を授与している。】です。
仁科博士の記念館は別途ありますので,また,伺ってみましょう!