2011.5.18-20.
東京で日本産業衛生学会でした。
前日の日本衛生学会臨時理事会に和文誌編集委員長として参加して,3泊4日でした。
竹芝の4つの施設で開催でした。
西村先生がORALで発表です。座長は,昭和大の山野先生!
このセッションでは,三重の平工先生,聖マリの網中先生もご発表,平工先生は,優秀発表賞を受賞されました。
大槻は,東京都立産業貿易センター浜松町館 でポスター発表でした。
好天に恵まれた三日間で,竹芝桟橋近辺も初夏の様子です。
ICOH active member の会では,去年の4月に御世話になりました,プレジデントの小木先生も来られてらっしゃいました。
 

 会場のホテルからの東京湾! 
  そして,竹芝桟橋の辺りです。
2日目は新宿で,感作性物質の小委員会に集まりました。
  
3日目は,日本産業衛生学会アレルギー免疫毒性研究会!
国立医薬品食品衛生研究所 衛生微生物部の 小西良子先生のご講演でした。
代表世話人の吉田先生,今回の座長/世話人の角田先生です(日本医大の李先生も世話人でした)。
カビ毒の話ってあまり勉強していなかったので,よい学習になりました。
 
最終日の午後でしたが,聴衆も集まり,よい研究会になりました。

さて,今回は,toxicology分野が初日に固まっていたので,2〜3日目は思いの外時間があって・・・・時刻表で調べると1時間内で鎌倉に行けるってことで,行ってきました。
初横須賀線(だと思う),で,鎌倉駅です。弐の鳥居です。
参道っていうか,若宮大路が続きます。
参の鳥居で,境内に入ります。
そういえば,中学の修学旅行(京都府福知山市でした)は,東京で,その時に鎌倉も寄った記憶・・・っていうより,大仏前での集合写真の記憶がありますが・・・・。
池などの沢山あって・・・で,拝殿は,遠くの先です。
【鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)は神奈川県鎌倉市にある神社。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。境内は国の史跡に指定されている。】です。
しっかりと手を清めて・・・向かいましょう!
神楽殿を過ぎると,長い石段です。
この狛犬の裏の大銀杏は【鎌倉市の鶴岡八幡宮で、強風で折れた大銀杏(おおいちょう)の根の部分で育っている幼木(ひこばえ)から、緑色の新芽が出ているのが確認された。東日本大震災の被災者への支援活動を続ける八幡宮は「大銀杏が新たに芽吹いたように、日本中に『復興の芽』が力強く育ってほしい」と、神木の再生に被災地復興への思いを重ねた。大銀杏は樹齢1000年と言われる高さ30メートルの神木だったが、昨年3月10日に強風で倒れてしまった。その後、地面に残った根から多数の幼木が成長。今年3月には専門家の指導を受けて剪定(せんてい)し、育ちの良い約10本を残した。新芽は4月下旬、そのうちの2本で確認された。6月には、幼木全体が新緑に包まれているのが見られそうだという。】です。
しかし,小〜中学生の修学旅行かな? 一杯です。
朱塗りの勇壮な拝殿です。
巫女さんも沢山いらっしゃいます。

そして,丸山稲荷です。祈願しておきましょう!
【康平6年(1063年)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。永保元年(1081年)2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。建久2年(1191年)に、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。承元2年(1208年)には神宮寺が創建される。】だそうです。
さて,ここで由比ヶ浜に行く予定だったのですが,中学生の子たちが,「建長寺」に行くって云っていたので,云って観ました。
  
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途中の隧道です。
  
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さて,建長寺です。
【建長寺(けんちょうじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山である。山号を巨福山(こふくさん)と称し、寺号は詳しくは建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という。鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。鎌倉五山の第一位。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定されている。】です。
立派なっていうか,壮大なお寺さんですね。
【仏殿:重要文化財。 寄棟造で単層裳階(もこし)が付く。芝(東京都港区)の増上寺にあった、徳川秀忠夫人崇源院の霊屋(たまや)を建て替えに際し、譲渡されたもので、正保4年(1647年)に建長寺に移築されている。もともと霊廟建築として造られたものであるので、屋根や天井などの形式が一般的な禅宗の仏殿とは異なっている。すなわち、屋根は入母屋造でなく寄棟造である。また、天井は禅宗仏殿では平板な「鏡天井」とし、龍などの絵を描くことが多いが、この仏殿の天井は和様の格天井(ごうてんじょう)である。堂内には本尊の地蔵菩薩坐像(室町時代の作、像高2.4メートル)、もとこの地にあった心平寺の旧本尊地蔵菩薩坐像、千体地蔵菩薩立像、千手観音坐像、伽藍神像などを安置する。堂前にあるビャクシン(白槙、和名イブキ)の古木7本は開山蘭渓道隆手植えと伝えるもので、樹齢約750年といわれる。】です。
歴代・・・でしょうか,和尚の名札もありました。
奥へずずっと進みましょう!【法堂(はっとう)重要文化財で、禅宗以外の寺院の「講堂」に相当する建物。文化11年(1814年)の建立である。内部には千手観音坐像を安置する。2005年に重要文化財に指定された。】

【唐門重要文化財で方丈入口の門。仏殿と同じく、芝の徳川秀忠夫人崇源院霊屋から移築したもの。】・・・これが,きらびやかです。
【方丈:「竜王殿」とも称する。総門と同じく、京都の般舟三昧院から移築したもの。庭園は夢窓疎石の作といわれる。】も回覧できました。
中庭は比較的シンプルで,借景がいいですね。
こんな禅の研究会もなさっているのですね。
さて,他にも入れませんが,宝珠院,龍峰院,天源院などに足を進めました。
正統院というのもある様です。
暫く行くと,「半僧坊」というのもあるとのこと,歩を進めましょう!
大権現ですので,鳥居もありますね。
いくつかの石碑などが,相当数あります。至る処に・・って感じに・・・。
そして,結構,山深くまで入ります。
石段は,可也続いて,結構,しんどいくらいです。
途中,どこかの大学のアスリート君? 重しを手に抱えながら階段を昇降していましたが(勿論,走って)
だいぶ,登ってきました。
迎えてくれるのは,天狗達の像です。
結構,汗をかきました。
半僧坊に到着です。
富士見台?? 確かに,結構,大きな富士です。
【半僧坊:境内のもっとも奥、山の中腹にある、建長寺の鎮守である。ここに祀られる半僧坊権現は1890年に当時の住持であった霄(おおぞら)貫道禅師が静岡県引佐郡奥山(現・浜松市)の方広寺から勧請した神で、火除けや招福に利益があるという。半僧坊権現とは、後醍醐天皇皇子の無文元選禅師(前述の方広寺開山)の元に忽然と現われ、無理やり弟子入りした白髪の老人で、神通力を持っており、無文禅師が死去するとその老人も姿を消したという。半僧坊へ上る石段の途中には天狗の像がある。】です。
まさに,「ありがたや」という心境ですね。
眼下には,本坊の屋根の甍も見えています。
まだ,その奥があるそうで・・・山の展望台まで登りましょう!
そこからは由比ヶ浜〜富士も見えています。

(動画 ↑クリック・・・最後に行った由比ヶ浜の様子も入っています)
絶景ですね・・・でもすぐ裏手は団地やゴルフ場が開発されている様ですが・・・。
  
さて,また,戻ってきて・・・降りて行きましょう!
天狗たちに見送られるのも,乙なものです。
その後・・・回春院に向かいました・・・途中で蜻蛉を見つけました(こういう時,もっと望遠が出来るデジカメだといいのですが・・・・)
【建長寺は鎌倉幕府5代執権北条時頼(1227年 - 1263年)によって創建された禅宗寺院で、建長5年(1253年)に落慶供養が営まれている。開山(初代住職)は宋からの渡来僧・蘭渓道隆(大覚禅師、1213年 - 1278年)であった。当時の日本は、承久の乱(1221年)を経て北条氏の権力基盤が安定し、京都の中央政府の支配力は相対的に弱まり、鎌倉が事実上、日本の首府となっていた時代であった。北条時頼は熱心な仏教信者であり禅宗に深く帰依していた。創建の時期については、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には建長3年(1251年)から造営が始められ、同5年(1253年)に落慶供養が行われたとある。造営開始時期については建長元年(1249年)ないし2年からとする異説もあるが、おおむね建長元年(1249年)頃から造営の準備がなされ、同5年(1253年)に完成したとされる。建長寺が所在する山ノ内は、幕府のある鎌倉の中心部からは山一つ隔てた所に位置し、鎌倉の北の出入口の護りに当たる要衝の地であって、北条氏の本拠地でもあった。建長寺の境内が広がる谷(鎌倉では「やつ」と読む)は、元は「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場で、地蔵菩薩を本尊とする心平寺という寺が建っていた。また、心平寺の旧本尊と伝える地蔵菩薩像は今も建長寺に伝来している。】というのが,建長寺の歴史です。
回春院でも蜻蛉発見です。
その他,法話をする建物とか,いろいろありました。
歴史の続きです【開山の蘭渓道隆は中国・宋末の禅僧で、寛元4年(1246年)、33歳で来日した。はじめ筑紫、京都に住んだ後、宝治2年(1248年)に鎌倉入りし、建長寺が創建されるまでは常楽寺(鎌倉市大船に現存)に住した。当時の日本には、すでに半世紀以上前に建立された建仁寺(京都)や寿福寺(鎌倉)などの禅宗系寺院があったが、当時これらの寺院は禅宗と他宗との兼学であり、純粋禅の道場としては建長寺は、聖福寺(北九州)などに次ぐ古さを誇るとされている。伽藍配置は中国式であり、寺内では日常的に中国語が使われていたという。蘭渓道隆の禅風は中国宋時代の純粋禅を受け継いだ厳格なものであった。道隆は弘長2年(1262年)京都の建仁寺に移ったが2年後に鎌倉に戻って建長寺住持に復帰。その後、文永の役の際には中国側のスパイと疑われたためか、甲斐(山梨県)に流されたこともあったが、のちに許されて鎌倉に戻り、弘安元年(1278年)4月、建長寺住持に再度復帰。同じ年の7月、異国日本で生涯を閉じた。66歳であった。】
本堂の方に,降りて来ると,小学生たちは,昼食を思い思いに摂っていました。
その自由さが素敵でした。
【その後の建長寺は正応6年(1293年)4月12日に発生した鎌倉大地震により建造物の大半が倒壊炎上、正和4年(1315年)、応永23年(1416年)をはじめとするたびたびの火災で創建当初の建物を失った。鎌倉時代末期には修復費用獲得のため、幕府公認で元へ貿易船(寺社造営料唐船)が派遣され、「建長寺船」と呼ばれた。江戸時代には徳川家の援助で主要な建物が新築または他所から移築されたが、1923年の関東大震災でも大きな被害を受けている。】だそうです。
【三門(山門):安永4年(1775年)の建立で、2005年に重要文化財に指定されている。銅板葺きの二重門(2階建て)で、関東大震災で倒壊し、再建される。初層には仁王像などを置かず、門扉も壁もない吹き放しとしている。上層には宝冠釈迦如来像や銅造の五百羅漢像などを安置する(上層は非公開)。】これも荘厳です。
そして,国宝の梵鐘です。
いやぁ。。。【鎌倉時代末期頃より幕府が制定した京都と鎌倉の寺院で構成される五山制度が変化して、室町時代に京都の南禅寺を別格上位とする京都五山と鎌倉五山の寺格が固定された。鎌倉五山 :(京都・南禅寺 - 別格上位),建長寺-第一位,円覚寺-第二位,寿福寺-第三位,浄智寺-第四位,浄妙寺-第五位】,次には廻らないと・・・・。
  
再び隧道を超えますが・・・これは
【鎌倉七口(かまくらななくち)とは三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口で、現在一般に言われるのは以下の7つである。極楽寺坂切通し,大仏切通し,化粧坂,亀ヶ谷坂,巨福呂坂,朝比奈切通し,名越切通し】の巨福呂坂です。【鎌倉七口の史料上の初見は、江戸時代初期の1642年〜1644年頃に書かれたと思われる『玉舟和尚鎌倉記』である。その後、1659年の『金兼藁』、1674年の『徳川光圀鎌倉日記』、また、水戸光圀が命じて編纂させた1685年の『新編鎌倉志』にも相次いで言及を見出すことが出来る。江戸時代末では、1829年の『鎌倉攬勝考』、1841年の『新編相模風土記稿』に同じような記述がある。鎌倉時代には「七口」の呼び名は無く京都の「七口」をもじったもので「鎌倉十橋」「鎌倉十井」などと並ぶ、いわゆる名数である。『玉舟和尚鎌倉記』では「大仏坂」「ケワイ坂」「亀ヶ井坂」「小袋坂」「極楽寺坂」「峠坂」「名越坂」とあり、 『徳川光圀鎌倉日記』になってケワイ坂を「化粧坂」、亀ヶ井坂を「亀ヶ谷坂」、小袋坂を「巨福呂坂」、峠坂を「朝比奈切通」、大仏坂を「大仏切通」、極楽寺坂が「極楽寺切通」、名越坂が「名越切通」と出てくる。鎌倉時代の公文書とも言える『吾妻鏡』にその名が見られるのは「ケワイ坂(気和飛坂)」「六浦道(朝比奈切通)」「名越坂」、そして「山内道路」として出てくるのが亀ヶ谷坂ないし巨福呂坂であり、あとは現在の七口には数えられない「小坪坂」(「小壷坂」とも)および「稲村路」である。「大仏坂」は鎌倉時代には全く記録が無く、極楽寺坂は極楽寺の寺伝に開山の忍性が開いたとある。現状の鎌倉七口は、巨福呂坂が新道となり痕跡だけ残して消滅。極楽寺坂切通しも普通の車道となり、明治時代以前の趣を残しているのは大仏切通、朝夷奈切通、名越切通の3か所と多少趣を残しているのが化粧坂と亀ヶ谷坂切通である。】だそうです。
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抜けると県立近代美術館鎌倉別館でした。
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さて,鶴岡八幡宮の駐車場の辺りに戻ってきました。
そこで,曹洞宗の道元禅師の石塔がありました。
大槻家は,曹洞宗なので,ついつい写真を撮りました。
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その向かいは,鶴岡文庫です。【鶴岡八幡宮には、鶴岡文庫という図書館があります。ここでは当宮所蔵の古文書のほか、鶴岡八幡宮や神社神道についてはもちろんのこと、鎌倉の歴史や文化に関する資料の収集も行っています。鶴岡八幡宮は1180年の創建以来、今日に至る800余年の歳月を鎌倉と共に歩んできました。古い歴史を有し、見どころも多い古都鎌倉に、もう一歩踏み込んでみてはいかがでしょうか。】とのことです。そして,初任神職研修会場でした。
そこから住宅の中を進むと,山に入る一番奥手に,今宮がありました。
さて,鶴岡八幡宮の本殿の方に向かいましょう!
大銀杏~若宮の辺りから,東の方へ抜けて行きます。
若宮に参って・・・【柳原神池:蛍放生祭・鈴虫放生祭の祭場になります。紅葉の季節は見事な景観です。」】
ここには,鶴亀石がありました【水で洗えば鶴亀のような輝きを出すと伝えられる名石です。】だそうです。
そして,さすが,源氏:白旗神社です【源頼朝公、実朝公がお祀りされており、黒塗りの御社殿が印象的です。祭神の御神徳にあやかり必勝や学業成就の信仰のあつい神社です。】
さて,そこから鎌倉国宝殿から,源平池のほうへ向かいます。
緑と花々を,愛でながら・・・
この辺りには,修学旅行生は来ていないです。
齋館【献幣使をお迎えしたり又、国の内外からの賓客をお持て成しするところとなります。】です。
 
そして,牡丹園の方へ・・・・。源平池が,いろいろと顔つきを変えて見せてくれています。
池の中には,島が三つ。
白い幟が,一杯です。
初夏を思わせる陽光に,水面が映えています。
秋も紅葉で,綺麗でしょうね。
「湖石の庭」がありました。
ただ,牡丹は,もう盛りを過ぎた様でした。
それぞれに和傘が差し掛けてあります。
池の表情ともマッチしています。
今年,大槻は,RSKバラ園とか,郷里福知山の菩提寺洞玄寺で,牡丹の盛りは沢山見ました。
大ぶりで,華やかです。
花言葉は【「王者の風格」「富貴」「恥じらい」「高貴」「壮麗」】
美人の形容では「立てば芍薬,座れば牡丹」ですね!
そして,「いずれ菖蒲か,杜若」ってのもあります。

ちおっと汗ばむ・・・そぞろ歩きです。
さて,旗上弁財天社です。【源平池の東の島にあり、御社殿は八幡宮御創建800年(昭和55年)に、文政年間の古図をもとに復元したものです。頼朝公の旗上げにちなみ、源氏の二引きの旗に願をかける人が大勢います。】
所せましと源氏の白い旗ですね。
青い空と緑の木々と,白い旗です。
そして,白い旗ならぬ,白い鳩も・・・沢山!
さて,ほぼ,ぐるりと回りました。
  
境内に入る辺りには,鎌倉彫のお店が並んでいます。
 
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若宮大路を南へ下りましょう!
    
途中には,大巧寺・・・安産の御守があるとのことで,沢山のお参りの人でした。
【元は頼朝の祈願所で大行寺といって十二所にあったが、頼朝がある戦いのときこの寺で練った作戦で平家に大勝したため大巧寺と改め、1320(元応2年)に現在地に移された。若宮大路に面した朱塗りの門のところに「頼朝戦評定所」の碑がたっている。本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことに由来する。以来、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになった。日蓮宗の寺。】です。
鎌倉は,しかし,東国としては,歴史が古いですものね!
まだまだ南へ下ります。
 
鎌倉野菜の鎌倉市場です。
歴史ある宝塔です。
壱の鳥居です。
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さて,由比ヶ浜!
わあ〜〜〜い,太平洋!
思い思いの人達も・・・何か,潮干狩りしている人もいますね!
そして岬は,稲村ケ崎です。
【七里ケ浜の 磯伝い 稲村ケ崎 名将の 剣投ぜし 古戦場】この歌詞の歌,メロディーが頭に響いていました。
【新田義貞が鎌倉攻めの時に岬を回ったとされる伝説の場所】ですが,今のヒトはサザンかな,やっぱり!
【普通、滑川河口の西側の海岸とその周辺(由比ガ浜一〜四丁目付近)を由比ヶ浜、東側を「材木座海岸」と称している。現在は湘南の海として知られ、毎年夏になると多くのサーファーが集まっている。鎌倉時代、御家人同士の紛争の舞台であり、現在でも工事で当時の人骨が出土することがある。源義経の妻妾静御前が、源頼朝配下に捕われて鎌倉に送られた後に義経の男子を出生するが、これを知った頼朝は激怒してその子を由比ヶ浜に沈めたと伝えられている。また、有力御家人和田義盛もここで戦死したと伝えられる(和田合戦)。鎌倉時代末期には、源氏の血を引く新田義貞がこの地にて鎌倉幕府軍を撃破し、幕府滅亡を実現した。戦前頃までは、鎌倉初期から極楽寺に住んで支配した由井氏に因んでか、「由井ヶ浜」とも表記したが、「ゆい」には「共同作業」という意味もあり、定説ではない。なお、地元の人は「ゆいがはま」と「ゆ」にアクセントを付けて読む。】ですって!
なんか,浜辺ってだけで,気持ちが解放されました。
七里ガ浜まで行きたかったのですが,タイムアップです・・・残念です。
  
名残を惜しむ様に,こんかいの出張の帰路の「のぞみ」では,湘南・鎌倉の「「しらす弁当」でした。
 

さて,上記鎌倉も歩きに歩きました。
その前の18日・・・竹芝〜六本木往復です。
増上寺です。
そして,東京タワー!
   
壁がGREENなビルもあって・・・・
東京ミッドタウン横の檜町公園です。
【当地は江戸時代は長州藩・松平大膳大夫(毛利家)の下屋敷があったところで庭園は「清水園」と呼ばれ、江戸の大名屋敷の中でも名園のひとつとして知られていた。また周りに檜の木が多かったことから毛利家の屋敷は「檜屋敷」とも呼ばれ、後の「檜町」という地名の由来にもなった(公園の名もこれに由来する)。】だそうです。
東京は,こういった大名屋敷の跡が,残っているのがいいですね!
暮れなずむ色合いが和みます。
【明治時代になり毛利家の屋敷一帯は国の管轄に移り、第1師団歩兵第1連隊の駐屯地となった。第二次大戦後の一時期に米軍の接収を受け、その後敷地の大部分に防衛庁が設置される。残りの部分が檜町公園として整備され1963年に都立公園として開園。1968年に港区に管轄が移された。かつてはデモの集会などにも使われた。当公園は池を中心に遊具などが整った公園であったが、2000年に隣接する防衛庁(現:防衛省)が市谷に転出。その跡地に2007年に東京ミッドタウンが開発されたのを受け、当公園も再整備され景観が大きく変わった。隣のミッドタウン・ガーデン(東京ミッドタウンに付属している芝生広場)との調和が取れた開放的な造りとなった。】だそうです。
子供たちが遊べる広場もあるし・・・・。
【 広場には幼児の遊具や坐像女性の彫刻(ネレイス(海の精)エミリオ ・グレコ作)が置かれています。】です。
横には,ちゃんと「檜坂」
  
少し佇んでいると,日が暮れかかってきました。
優しいトワイライトです。
あっ,風鈴売りのオジサンも,乙なものです。

帰りは,ライトアップがライトダウンのタワーです。

もう人歩き・・・18日,宿舎の丁度,浜松町と田町の間くらいから,品川駅JRイーストビルの会議まで! 徒歩です。
この辺りは運河が一杯で・・・緑道が設えてあります。
清々しい5月(ちょっと汗ばむ・・・)です。
僕の大好きだったフォークグループ「猫」に「運河のある町」って曲がありました。
対岸が薔薇の盛りって見えて,いいなぁって思っていたのですが・・・
どこかの会社のビルにはこんなモニュメントも・・・
 
そして,品川駅の横の・・・東京都下水道局芝浦水再生センターです。
【芝浦水再生センターは、昭和6年に稼動した東京で3番目に古い水再生センターです。周辺環境は、かつての港湾倉庫街から、オフィスビルの立ち並ぶ都心の市街地に変貌しています。処理区域は、千代田・中央・港・新宿・渋谷区の大部分及び品川・文京・目黒・世田谷・豊島区の一部で、面積は6,440haです。これは、JR山手線の内側の広さに相当します。処理した水は東京湾(運河)へ放流しています。また、その一部を砂ろ過してセンター内で機械の洗浄・冷却・トイレ用水に使用しているほか、オゾンによってさらにきれいにしてから近隣のビルにトイレ用水として供給しています。発生した汚泥は、南部スラッジプラントへ圧送し、処理しています。】そう云えば,僕らも水島下水処理場に見学・実習に学生を引率していますね。
  
そして,土地利用が上手で芝生公園になっていて・・・そして,薔薇が満開でした。
3年近く前に逝去した
大槻の父は「黄色い薔薇」が大好きでした。
俳人でもあったので,
花を愛でることも,俳句の世界だったのかな?
ここは港区の公園になっているようです。
品川駅海よりは再開発で,ビルが沢山ですが,
こんな場所が近くに昼間は自由に入れるってのも,
それはステキなことですね。
白い薔薇は,もう溢れてこぼれそうです。
ピンクのバラが瀟洒な佇まい!


とっても楽しめました。
ちゃんと沈殿池もありますね。
そして品川駅方面に向かうと,緑の木々と芝生とです。
百葉箱は,いつ見ても,なんだか,少年時代を思い出させます。
小鳥たちが,なにかをついばんでいます。
作られたものも,そうでないものも含めて,東京は探すと緑が一杯です。
勿論,今日はウィークデイの昼間ですから,人の姿もチラホラなのですが・・・。
さぁ,会議に向かいましょう!