2011.5.16.

午後から岡山でした。

まずは,県庁で,川崎医大も会員となっている「岡山県企業誘致連絡協議会」の総会に,学長代理で出席しました。
 
会長はナカシマプロペラの中島氏,石井知事もご挨拶です。
県庁は・・・バラが綺麗に割いていました。
向かいは,県立図書館ですね。岡山城(烏城)も見えます。
天災の少ない岡山に企業誘致を,ということですね。
黄色い薔薇は,3年前に逝去した父が好きな花でした。
色鮮やかです。
心は和みます。
    

夕刻以降は,ピュアリティまきびで「メディカルテクノおかやま」の今年度第1回の役員会でした。

公文先生,御世話になっています。そして岡山医学振興会代表で,新見公立大学の難波先生・・・大学院の頃から御世話になっています。
ここの会場の庭は・・・冬のイリュミネーションはそのままなんですね。
帰る頃には,灯りがともっていましたが,暮れなずんでいて・・・もっと暗くならないと・・ですね。

さて,その合間に・・・東山電停の近くの玉井宮・東照宮にお参りしました。
長く岡山県民ですが,ここは初めて
かなり,広い境内の,立派な神社です。
【玉井宮東照宮(たまいぐうとうしょうぐう)は、岡山県岡山市中区の東山丘陵にある神社。祭神は豊玉比売命、彦火火出見命、玉依比売命、徳川家康公。旧社格は県社。】です。
学問の神様・・・天満宮にもちゃんと御祈りをしました。
【玉井宮は、元来、児島半島東端の児島郡小串村大字光明崎(現・岡山市南区小串)に鎮座していた。応徳2年(1085年)当地に玉井宮として移転遷座した。この時の祭神は豊玉比売命1柱のみであったと伝えられている。玉井宮遷座にはつぎの伝承がある。遷座した年の応徳2年、社頭より夜ごと怪しい光が発せられ、このため魚が寄りつかなくなり漁師は不漁で困っていた。そこで神前にお伺いをたてたところ、「御幣が舞い上がり、飛んで立ったところに遷座するように」との御神託があった。その御幣が立ったところを幣立山と呼び遷座した。そして、この宮を「玉井宮」または「玉の宮」と呼ぶようになった。】だそうです。
立派な拝殿です。天井には,家紋ですよね。
本殿は空襲にあった様です。
それも叉,歴史ということでしょうか。
【太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山空襲では、本殿や鳥居に焼夷弾が落下し一部破損したが概ね無事であった。平成元年(1989年)1月31日未明に不慮の火災により、幣拝殿・神饌所・社務所・参集所などを焼亡した。その後5年の歳月を掛けて再建された。】です。だから,いや・・・不慮の火災なのですね。
境内社もしっかりとして,鎮座されています。
精一杯努力をした上で,祈念することおm重要でしょう!
【正保2年(1645年)岡山藩主池田光政は、この地に東照宮を勧進した。また、玉井宮は前の広場(現在の駐車場)に移転された。江戸時代になって玉井宮の祭神として、新たに彦火火出見命、玉依比売命の2柱が合祀された。】ということで,二つの宮の名が並列で記載されているのですね。
ちょっとブレークで,花も愛でましょう!
   
いくつかの社も,境内の外の辺りにも多く,並んでいます。
御稲荷さん・・・片側のお狐様は・・・少し破損のまま。。。は,痛々しいです。
【玉井宮と東照宮は場所を同じくしていたが別々の神社であった。明治時代になり、明治14年(1881年)玉井宮と東照宮が合祀された。社名は玉井宮東照宮となり、県社に列格した。明治33年(1900年)旧玉井宮の建物を移転し、拝殿の建立が行われ、境内が整備された。】だそうです。
でも,メインの鳥居の外側にも,こんなに沢山のお社があるなんて・・。
広い処は,駐車場になっているのかな?
紋黄蝶が飛んでいました。
小高い丘なので,市街もよく見えています・・・こちらからも城下を見るって殿様の気分だったのでしょうか。
新緑は目に眩しいですね!
さて,くぐってきた最初の鳥居の,近くは,公園としての緑地でしょうか・・・ネコちゃんも! 小鳥も
この時期は,緑が一杯になって,清々しいです。
道路を挟んで,西側も公園緑地になっています。
ここは市電のターミナルです。
山陽女子中学・高校の生徒さん達が,丁度,授業が終わったくらいですか?

熱い程でもなく・・・良い気分で,緑に触れることが出来ました。