2011.2.13.
今日は午後から八重洲俱楽部で日本衛生学会の理事会に和文誌編集委員長として参加予定です。
前の日は,市民講座で東京だったので・・・泊しました。
そして,今回は・・・大学連携プログラム「岡山オルガノンの構築」で知己になりました岡山大学遠山先生のご紹介で・・・赤羽です。
まずは,熊野神社です。
2/11-12と東京はとっても寒い日々で・・・でも,今日は冬の真っ青な空が広がりました。まぶしいくらいです。
ここの狛犬さんは・・比較的新しいそうですが・・・子連れです。
参道も長く・・・良い神社です。
白酒祭りとかされているみたいです。その時節には・・。
境内社もいくつかありますよ!
毎回,神社に訪れる度に・・・いろいろお祈りしています。
御稲荷さんも・・・荒川・・・新河岸川辺りなので・・・水神社もありますね。
   
梅が一本,結構,満開に近いです。
紅梅です。
  
【紅梅に空あをくなれ青くなれ :林翔】ですね。
   
裏手に抜けて。。。新河岸川の土手沿いです。
この消防団のシャッター・・・ってアメリカみたい!
    
ここの水門から荒川と隅田川が分かれているのですね!
そこには荒川知水資料館がありますね。
水神社も施設内にありました。
【料館設立:荒川知水資料館は荒川流域の人と情報の交流、また北区における河川公園管理の拠点としてこれらの機能を集結させる形で平成10年3月に開館致しました。名称:荒川知水資料館(通称:アモア)。開館:平成10年3月29日。運営:国土交通省荒川下流河川事務所・東京都北区】です。

今日は・・・こんなイベントもあるそうです。
しかし・・本当に雲ひとつない青空ですよね!
この赤いのは,旧岩淵水門です。ここは情報を下さった遠山先生が子供の頃に御父様に連れられてよく遊びに来られていたそうです。
この辺りで,新河岸川(これももう少し上流でも荒川に合流もしている様ですが,少し用水路的なのかしら?)と荒川が合流して,かつ,遠くに見える新水門の先は隅田川です。
遠くに山並みも見えますが・・・奥多摩の山でしょうね・・・スカイツリーも垣間見れました。
これは記念碑とかではなく,彫刻なんでしょうね・・。いい雰囲気です。
日陰は・・・まだ,霜で一杯・・・水たまりも・・・氷っていました。
ちょっとした中之島っぽくなっていますね・・・。
奥多摩の山並みですよね・・・とにかく,青空とそれを映す水面の青です。
小鳥を見つけました。
向こうの水門が,隅田川の起点ですね!
春には桜並木の土手らしいですが・・・。
鴨さんたちかな・・・沢山集まっていました。
青空に・・・影絵の様に・・きれいです。
隅田川から・・・遊覧船が・・・これって運転の練習??
小鳥も・・・それと,白い鳥は鴎?
水辺ってやっぱり普段と気持ちが変化します。釣り人も居ましたけど・・・。
新河岸川・・・の土手沿いに・・地蔵さんがありました。
この御地蔵さんも遠山先生からの情報にありました!!

一昨日の・・・雪が残っていました。
さて,橋の上を,沢山の人が河川敷の方に向かってますが・・・何?
 
さて,土手沿いの・・・八雲神社です。
大きな境内です。
【八雲神社は、岩槻街道の東裏、荒川堤防の南側近くに鎮座します。この神社は、江戸時代に徳川将軍が日光東照宮に参詣する際に利用した日光御成道の第一の宿場として栄えた岩淵宿の鎮守社でした。祭神には須佐之男尊(すさのうのみこと)が祀られています。創建年代は不詳ですが、江戸時代後期に編纂された『新編武蔵国土記稿』には、「牛刀天王社 宿ノ鎮守トス 正光寺持」とあり、これが「テンノウサマ」と親しまれていたことがわかります。また、神仏分離以前には正光寺が別当寺でした。明治6年7月に村社に定められ、それ以来、赤羽八幡神社の兼務社になっています。平成19年10月  東京都北区教育委員会】だそうです。
【境内には、本殿、幣殿・拝殿、神楽殿、末社水神社が配置されています。水神社は舟運業者の信仰を集めた神社です。祠の右側には「寛政十二庚申正月吉日」の年紀が刻まれています。また、勝海舟が荒川で足止めされたときに書いたとされる大幟旗も所蔵します。平成19年10月  東京都北区教育委員会】です。
【現在、本祭りは、末社水神社の祭礼とともに隔年ごとの6月第一土曜・日曜に行われています。この時、氏子たちによって神輿が巡行されます。参道の端に「岩渕町 町名存続之碑」があります。昭和37年5月に「住居表示に関する法律」が公布されると、北区も住居表示の変更を進めました。由緒ある岩渕町の名を守るため、岩淵一丁目の住民は町名存続運動を展開しました。この石碑は、その時の記憶を未来へと刻むものです。平成19年10月  東京都北区教育委員会】とのことです。
川の近くですし,水神社は境内社として不可欠ですよね!
境内には,少しまだ二分咲きくらいの白梅もありました。
神社に梅は,なんか,ベストマッチですよね!
しっかりした神社ですね。
 
さて,そこら辺りには,御地蔵さんなんかも・・・。
   
それと,元々は岩槻街道なんですね・・そして,岩渕宿だそうです。
そして,その傍に・・れこも,「遠山情報」の「小山酒造」です。
【小山酒造は、東京都北区の酒の製造・販売業者。代表銘柄は『丸眞正宗』である。東京23区内に唯一残る造り酒屋である。】だそうで・・・東京サミットの時に乾杯酒として各国首脳に供されたとの事です。羽田空港の売店にも置いてあります,との情報です。
いやぁ・・・いいですね!
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で,さっきよりとっても沢山の人が・・・河川敷に向かっていっています。
何かって思ってたら・・・東京・赤羽ハーフマラソン大会でした。
すごい,5kmの分も含めて6,000人以上のランナーが来られているそうです。
で,アナウンスを聴いていたら,女子の部の正体選手が・・・
那須川瑞穂選手,脇田茜選手,佐伯由香里先生,そして西尾 美耶選手だそうで・・すごい,超一流じゃないですか!
なので・・・暫くスタートまで待っていました。
 
黒にピンクのラインの那須川選手とブルーの脇田選手,小さい(142cm)佐伯由香里選手登場です。
このメンバーは基本的には小出義雄氏の佐倉アスリートクラブ関係ですね・・・
スタート直前まで,那須川選手と脇田選手は雑談されていました。
そして,スタートです。

動画も!
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この新荒川大橋は,埼玉と東京の県境ですよね!
 
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それと・・・これも遠山情報ですが・・・正光寺さんです。
遠山情報によりますと「大きな露座の観音様がたたずむ御寺です。30年前くらい前,火事で本堂が焼けてしまい,焼けのこった観音像だけがンコされています・現在,新しい住職の方が着任されて,鋪道修復中とのことです。・・・確かに,修復中でした。
でも,立派な観音様でした。
温和なお顔立ちの・・・観音様です。
  
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さて,御土産に・・・商店街を歩いていて・・・地場で,あられ/煎餅を作られているお店でお土産を買いました。
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さて,それと稲付城跡に行ってきました。
今,静勝寺さんの境内の様です。
太田道灌さん縁・・・みたいですね。
【太田 道灌は室町時代の武将。武蔵国守護代。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。】です。
【太田道灌が築城した稲付(いなつけ)城跡。石段右の石碑に「都旧跡 稲付城跡」と刻まれていますが、これがなければ城跡だとは気が付かないでしょう。 石段を登ると静勝寺の山門があり、その手前に北区の説明板が立っています(下記)。 武蔵野台地の崖を三方に使った城跡。】だそうです。
ここでも,梅は・・・こちらは結構満開です。
なかなか,よい落ち着いた佇まいのお寺さんでした。【稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。昭和62年(1987)、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地地図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。道灌の死後、この城は孫の資高(すけたか)が居城し、後に後北条氏に使えました。その子康資(やすすけ)後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。明暦元年(1655)に道灌の子孫資宗(すけむね)は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木造を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。】だそうです。
  
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さて,赤羽駅北改札口西口かな? 
  
何だこれは?って近付いたら,銅像の・・・七福神でした。
これは結構,珍しいっすよ!
 
では,東京駅まで戻りましょう!