2011.1.24.
東京秋葉原のUDXで,文科省の大学教育改革プログラム合同フォーラムがありまして,大槻は「岡山オルガノンの構築」に関連して参加してきました。
理大・木村先生もこられてらっしゃいます。
 
いろんな医療系の資料も集めました,翌日は本学の産科や,本学も参加している岡大の「がんプロ」の発表もあった様です。
サテライトで講演を拝受しました。文科省笹木副大臣の御挨拶,そして,金沢工業大学総長の黒田壽二先生のご講演は,サテライトで聞かせて頂きました。
大学の機能分化も必要という論点については,本学などは助かるっていうか,嬉しい処ですね,きっと。
 
出席の予約が出来た分科会では,なんと,よく知っている旭川医大の吉田教授が発表されていて,びっくりでした。
去年のビッグサイトより交通の便は楽ですが,ちょっと会場はせせこましい感じでしたよね。
石垣の遺跡だそうです。
 

往路の新幹線からの富士山です。
富士川を渡る時から,とっても良く見えてきます。
富士市通過中は,電線とか,工場の排煙とか越しに見ることになりますよね。
だんだん,手前の位牌山にだんだん隠れて行きます。

さて,会場の秋葉原から東へ「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」です。
「稲荷大明神」って,本当に細い路地の奥です。
でも,ちゃんと御祈りしておきましょう!
そして,暫く行くと,「鳥越神社」です。
裏手っていうか,西側から来たので,表(東南)側に回って・・・ちゃんと境内に入りましょう!
【鳥越神社は、東京都台東区鳥越にある神社である。白雉2年(651年)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと伝えられている。例大祭に出る千貫神輿は都内最大級を誇る。】だそうです。
確かに,なかなかしっかりとした神社って印象です。
冬の神社に柑橘系って合いますね!
【祭神 * 日本武尊:東国平定のおりにこの地に滞在したことを偲び、村民(平安後期まで白鳥村と呼ばれた)が奉祀したのが始まりとされる。o 天児屋根命:武蔵の国司となった藤原氏の祖神として祀ったものとされる。o 東照宮公:徳川家康を祀っていた松平神社(現蔵前4丁目16番付近)が関東大震災で焼失したため当社に合祀された。】ということです。
いろんなことを御祈りしておきました。
この辺りには,神社も多いのでしょうか? 案内マップもありました。

で,ブラブラしていると,銭湯発見です。
  
下町風になってきましたね!
   
明治新政府の最初の学校の跡地だそうです。

精華公園です。東京の砂場は囲いの中です。
そして,自然を造っているっていうと変ですが,でも,子どもたちに触れてほしいってことでしょうね!

さて,蔵前神社です。
【徳川綱吉が山城国男山の石清水八幡宮を勧請したことをもって創祀とする。以来、社領200石を寄進され、江戸城鬼門除け、徳川将軍家の祈願所として崇敬を受けた。当時の正式な社号は石清水八幡宮だったが、一般には蔵前八幡、東石清水宮と呼ばれた。別当は新義真言宗の雄徳山大護院。天保12年(1841)には日本橋の成田不動(成田山御旅宿)が境内に遷されてきた。また、宝暦7年(1757)以来たびたび勧進相撲が行われ、回向院・富岡八幡宮とともに三大拠点の一つであった。現在のような縦番付は、宝暦7年10月に当社で行われた本場所から始まったという。明治元年(1868)の神仏分離令により、別当大護院は廃絶し、成田不動は翌2年に深川に移されて深川不動堂となった。同6年(1873)には社号を石清水神社としたが、同19年(1887)、もとの石清水八幡宮に復した。大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の東京大空襲で社殿を焼失。昭和22年(1947)、隣接の稲荷神社と相殿の北野神社を合祀し、同26年(1951)に蔵前神社と改称した。さらに平成7年(1995)、境内社の鹽竈神社を合祀した。】だそうですよ!
まぁ,その名前の通り,大相撲協会は,とっても関係しているのでしょうね!
そこここに神社があって,祈る気持ちが生まれるのは,よいなぁって思います。
境内社もあって,やはり,お稲荷さんもありますし・・・。

さて,方向転換で,南に向かいます。
 
揖取稲荷神社が,ビルの裏手の狭い処に・・・階段もとっても急で,見上げる感じです。

そして,榊神社です。
【景行天皇の時代、日本武尊が東夷征伐の折に創祀したという。 江戸時代、埋め立て用の土を得るため鳥越の山を崩す際に蔵前に移る。享保4年(1719年)に現柳橋1丁目の地に移る。 昭和3年、現在の地に移る。かつてこの地には官立の図書館浅草文庫があった。浅草文庫は明治14年5月に閉館、その後は東京職工学校(後に東京高等工業学校、現東京工業大学)の敷地となっていた。東京高等工業学校は関東大震災後に目黒区に移転している。】ということで,そういった案内板などもあります。
比較的,広い境内です。
とあるグループさんが,参拝に訪れてらっしゃいました。
 
境内社も狭っ苦しい感じでしたが,並んでいました。
【社伝によれば、景行天皇の御代、日本武尊が皇祖二柱の神を祀ったことにはじまるという。もとは浅草鳥越の岡にあり、鳥越神社・熱田神社とともに鳥越三所明神と呼ばれていた。しかし、徳川家康の江戸入府以来、鳥越の岡は造成のために順次取り崩され、正保2年(1645)鳥越三所明神に移転が命じられた。この時、鳥越明神だけが旧地に残り、熱田神社は山谷に、第六天社は堀田原に遷座した。明治6年(1873)社号を榊神社と改めた。】と云う情報もありまして,先ほど訪れた鳥越神社ともつながっている感じですね。
【浅草文庫とは、徳川幕府の学問所と将軍の紅葉山文庫の書籍を蔵書とした、明治時代初期に東京に開設された明治期の一種の公立図書館。明治政府は旧幕府から接収した書籍類を太政官や各大学へ分割して引き継いだが、文部省博物館(本省機構かつ展示施設、現東京国立博物館)はこれらを1ヶ所にまとめて公衆の閲覧に供することとし、明治5年(1872年)に日本最初の近代的公立図書館として「書籍館」(しょじゃくかん、図書館の古称)を湯島聖堂(大成殿)に開設した。1874年(明治7年)になり、明治政府は書籍館閲覧室となっていた大成殿大講堂を会議場として利用するため、当時は太政官博覧会事務局管轄下となっていた書籍館を閉鎖し、蔵書を浅草蔵前の旧浅草御蔵の米蔵に移した。そして、同地に閲覧所を新築し、翌1875年(明治8年)に開館した。同年に文部省は改めて湯島聖堂に図書館「東京書籍館[1]」を開設したので、開館時には博物館とともに内務省管轄となっていた同施設は、明治新時代の事物である書籍館・図書館の名を冠さない「浅草文庫」と称した。浅草文庫は博物館の付属施設であったため、博物館の古書画も保管し、これらの閲覧もできた。1881年(明治14年)、上野公園に新築された博物館構内の「書籍借覧場」に移転し、蔵前の閲覧所は閉鎖されて東京職工学校(東京工業大学の前身)に引き継がれ、浅草文庫は幕を閉じた。蔵書の大部分は古典籍・古文書として現東京国立博物館にまで引き継がれたが、一部は内務省本省を経て内閣文庫の中核となり、現在は国立公文書館に保存されている。】という由緒だそうです。
なかなか,やっぱり東京には,多様な文化っていうか,歴史って云うか,それもありますよね!
   

江戸通りを南に下ると,須賀神社です。
【須賀神社は、牛頭天王・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社。日本全国に存在する。「すが」は「須我」「清」「酒賀」「素鵞」などとも表記される。島根県・高知県に特に多い。他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、祇園神社、広峯神社、天王神社、八雲神社、素盞嗚神社があり、時代や資料によって通用される。社名は、日本神話において、スサノオが八岐大蛇を退治してクシナダヒメを妻とした後、出雲国須賀に至って「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ってそこに宮を作ったことに由来するものである。須賀神社の多くは、明治の神仏分離まで「牛頭天王社」などと称していた。】ということで,そういえば,四谷でも須賀神社って行きました!
   

さて,また分科会の時間なので,戻っていきましょう!
三井記念病院の裏手に,小さなお稲荷さんです。
でも,由緒とか,とっても詳しく書かれていますね!
金綱稲荷大明神でした。

戻ってきました。
 
帰りは,駅弁しました。