2010.12.20.
12/17-19も東京だったのですが,一旦,帰倉して・・今日も日帰り東京です。
日本免疫毒性学会の運営委員会です。
で・・・ちょっとだけ早目に着いて,明治神宮です。
こんな説明板です。

東京のど真ん中ですが,木々が溢れています。
【1912年(明治45年)に明治天皇が崩御し、立憲君主国家としては初の君主の大葬であったがその死に関する法律はなく、何らかの記念(紀念とも)するための行事が計画される。その事業は程なく予定されていた明治天皇即位50周年のものを引き継ぎ(明治天皇の銅像、帝国議会、博物館などさまざまな案があった[2])、続いて、1914年(大正3年)に皇后であった昭憲皇太后が崩御すると、明治天皇と昭憲皇太后の遺徳を偲ぶ国民から2人をまつる神社を求める機運が高まった。これを受けて政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、大正天皇の裁可を受けて、1915年(大正4年)5月1日、官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表された。】だそうです。
なんだか,若い子も多いなぁ・・沢山,参道を歩いています。
そういえば,ニュースで伊勢神宮も今年は非常に多い参拝客だったとか・・・パワースポットブームで,ってことの様ですね。
【明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ代々木の南豊島世伝御料地を境内地として造営が行われた。1920年(大正9年)11月1日に鎮座祭が行われた。ちなみに、この御料地はかつて近江彦根藩井伊家の下屋敷のあった場所で、明治維新後に井伊家から政府に対して献上されたものである。面積約70万平方メートルの境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木を青年団が植樹したものである。また、本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」至誠館などがある。明治神宮外苑(一般には「神宮外苑」として知られる)は、「明治天皇・昭憲皇太后のご遺徳を永く後世に伝えるため、民間有志により結成された明治神宮奉賛会が、広く国民より募った寄付と全国青年団の勤労奉仕によって」造営された。聖徳記念絵画館を中心に、明治神宮外苑競技場(現在の国立霞ヶ丘陸上競技場)・明治神宮野球場・明治神宮水泳場などがある。】です。
大鳥居を抜けていきましょう!
【1943年(昭和18年)10月21日に明治神宮外苑競技場にて出陣学徒壮行会が開催され、雨のなか、約7万の入隊学徒が行進した。1945年(昭和20年)の空襲の際に社殿のほとんどが消失したが、1958年(昭和33年)10月31日に再建された。第二次世界大戦後は宗教法人神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、2004年(平成16年)に神社本庁との包括関係を解消し、単立神社となった。しかし、2010年(平成22年)8月23日、再び神社本庁は明治神宮の被包括関係を設定した。2010年(平成22年)現在の初詣では大晦日から正月三が日の間で300万人前後にものぼる日本一の参拝者を集めている。2008年(平成20年)10月26日-11月1日:明治神宮御社殿復興50年記念の特別ライトアップ「アカリウム」奉納行事開催。】というような沿革だそうです。
広大な境内です。
楠です。
外国人旅行者も多い印象でした。
絵馬も沢山!
東西南に大門がありますね・・・・。
一歩,多くの参拝客が少ない辺りに入ると,静謐な感じが漂っています。
さて,また参道を戻っていくのですが・・・。
御苑に入ってみましょうか・・・・。
江戸初期以来,加藤家,井伊家の下屋敷の庭園だったそうですが,明治時代に宮内省管轄となって,代々木御苑と称されていたそうです。
武蔵野の雑木林の面影があり,熊笹の径となっています。
隔雲亭,御釣台,四阿,菖蒲田などがあります,との説明です。
ちょっと時間が少ないのですが,それでも,見て歩きましょう
菖蒲田ですが,名前の札が立っています。
すべてにこの名札があるようでした。
晩秋から初冬の色合いですね。
写真愛好家の方は,多分,雀を撮ろうとされてたのかしら? ある処で,留まってチャンスをうかがってらっしゃいました。
まだ紅葉などの彩が残っているのがいいですね。
この辺りには人も少なく・・・落ち着きました。
ここに花菖蒲が咲き乱れている時期もいいでしょうね。
鮮やかに冬の陽に映える紅葉です。
清正井は,女性がとっても多く,来られていたし,しきりに写真を撮ったり・・・これもパワースポットなのでしょうか?
この空間に浸っていたいのですが,会議の時間もありますし・・・。
そろそろ原宿駅に向かいましょう!
原宿駅からも椿が・・・。