2010.12.3-4. 四国がんセンター 形成外科部長 河村進先生が会長で第11回日本クリニカルパス学会!
っていうか,河村先生! 附属高校〜大学〜研修の間の同級生だし!!
で,大槻は,懇親会でのピアノマンとして,かつ,自作曲披露役として招聘してもらえました。
前日の12/02に松山入り・・・他のメンバーとリハーサルと打ち合わせでした。
MONKさんってジャズライブハウスでした。(写真は,参加しなかったクリパス学会のバンドの様子)


さて,懇親会と2次会で沢山,演奏しました。以下の写真クリックで映像を紹介しています。
まずは,大槻関連分ですが・・・・
副島秀久先生:済生会熊本病院(フルート)
松田眞佐男先生:社会保険中京病院(サックス)
中川宏治先生:高知赤十字病院(ベース)
デューク谷本氏(ドラム)
永江浩史先生:聖隷三方原病院(ProgressのVocal)
です。
枯葉
(懇親会)
イパネマの娘
(懇親会)
Comin' Home Baby
(2次会 MONK)
イパネマの娘
(2次会 MONK)
Progress
(2次会 MONK)
世界に一つだけの花
(懇親会フィナーレ)
船田千秋さん(プログラム委員長/四国がんセンター副看護師長)がVocalです。
さて,KIGOKORO BANDも演奏されました。
田中良典先生:武蔵野赤十字病院(My WayのVocal)
吉田茂先生:名古屋大学病院メディカルITセンター(ハマショーのVocal)
岡本泰岳先生:トヨタ祈念病院(サックスとVocal)
今田光一先生:黒部市民病院(ギター)
松波和寿先生:松波総合病院(キーボード)
My Way
(懇親会)
光と影の季節
(懇親会)
光と影の季節
(2次会 MONK)
そして,2次会では,今回の演奏その他の裏方をしてくださった松山の戸田医療器 代表取締役 戸田道尚氏率いる「一文無し」
おやじバンドのコンテストで全国大会出場を誇るアマチュアバンドさんです。
そこそこです 痛風ブルース

会長招宴も道後大和屋さんで,堪能させて頂きました。感謝! 感謝!

会長挨拶で同級生が話しているってすごいですね!感動! 感動!

御馳走をたっぷりと頂戴しました。
大槻と,ベースの中川先生(高知赤十字病院形成外科部長)はクリパス関係以外でしたので,配慮を頂いて,バンド集まりの関を組んでいただきました。
← 中川先生です。
熊本済生会病院院長の副島先生もフリーティストで,Jazz コンボで演奏御一緒しました。御挨拶もされます。

中川先生とも話していましたが,宴が始まって5分くらいで皆がビール瓶片手に歩きだすって,なんと和気藹々な学会なのでしょう!
川崎医大からは眼科の若宮先生が来られていました(済みません,写真はありませんが・・)。
四国に移って,本当に楽しそうにやっていますね,河村先生!
  
能舞台があったり,素晴らしいお宿でした。
   
また,宿泊させていただいた「道後やや」さんは新しいホテルですが,綺麗な・・・そうか,温泉宿の今! って感じで,感動しました。

さて,2日は雨でしたが,学会開始の朝は,晴れ間が覗きました! そして最初は会長講演です。
   
河村先生の会長講演を楽しく拝聴しました。
四国がんセンターの多くのスタッフさんが,この学会のスタッフになられていて,その統括として頑張ってました!
がんセンターの様子や,松山観光名産の紹介などまで!!
あるいはこの学会では,「蛇口をひねるとポンジュース」も実演していた様です。
いい会長講演でした。
でも2日間の一番最初のプログラムがから,まだまだ,大変ですよね,頑張って!
会長講演終了!(動画です)

会場はひめぎんホールを中心に,4か所位だった様で,すごく大きな学会です。
スタッフさんは,マドンナ&坊っちゃんの身装でした。
黒い装束はプログラム委員長の副看護師長さんです,また,レンタル衣装もあった様です。
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さて,懇親会が,大槻には本番(それとその後の二次会ですね)
司会は南海放送の美人さん・・・中塚眞喜子さんでした,さすが,プロでした。
    

saxの松田先生は,地元でもライブなどされてらっしゃるそうです。


同級生,河村会長と!



会長招宴の後・・・大和屋さんから宿舎へ! 道後温泉(本館)は,「千と千尋」の湯屋のモデルだそうです。
本当にそのままの雰囲気でした。
 
そしていくつかの温泉内の湯がありました。
    
【椿の湯(つばきのゆ)道後温泉本館の姉妹湯として昭和28年に新設され、昭和59年に改築されました。昔、聖徳太子がこの地に咲き誇る椿の美しさを褒め称えたという言い伝えから名付けられた「椿の湯」は、鉄筋のモダンな建物で、壁面には窓から湯と椿が流れ落ちる「からくり絵」が描かれています。】です。

さて,会長講演を聞かせてもらった後は,大槻は・・・それでも松山観光もさせてもらいました。
丁度銀杏が・・・そして松山の街には銀杏並木が一杯でした。
  
ただ・・・・丁度,荷物を12/03の宿舎に預けに行く間,暴風雨! もう,折畳傘の骨は曲がるし,ズボンはびしょぬれだし,大変でした。
   
松山駅近くの宿(12/04は6:14発に乗車予定だったので)に荷物を預けて・・・坊っちゃん列車も見ました。
市内電車で・・・道後公園/湯築城址まで行きました。
伊予を戦国時代に治めていた河野氏の居城です。
AM中の暴風雨に枯葉は舞い散っていました。
【河野氏は、風早郡河野郷(北条市)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(1180〜1185)で河野通信が源氏方で功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり、伊予国の統率権を得ました。承久の乱(1221年)で没落するものの、元寇(1281年)で通有が活躍し、確固たる地位を築きました。また鎌倉時代には、河野氏から出た一遍上人が時宗を興しました。南北朝期、通盛の頃には本拠を河野郷から道後の湯築城へと移しました。その後有力守護細川氏の介入や一族間の内紛がありましたが、足利将軍家と結びつき、近隣の大内氏、大友氏、毛利氏などと同盟を保ちつつ伊予支配を維持しました。庶子家との争いも克服し、通直は湯築城の外堀を築き(1535年頃)、娘婿の海賊衆村上(来島)通康との関係を強化しました。最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に開城し(1585年)、河野氏の伊予支配に終止符が打たれました。】だそうです,
【中世の伊予国守護河野氏の居城、湯築城跡。南北朝期(14世紀前半)から戦国期(16世紀末)まで、250年以上にわたって伊予国の政治・軍事・文化の中心でした。現在の道後公園全体が湯築城跡(南北約350m、東西約300m)で、中央に丘陵があり、周囲に二重の堀と土塁を巡らせた平山城です。築城当初は丘陵部を利用した山城でしたが、16世紀前半に外堀と外堀土塁を築き現在の形態になったものと推定されます。また、江戸時代に描かれた絵図から、東側が大手(表)、西側が搦手(裏)と考えられます。】です。
小高い丘で・・・源平から安土桃山まで・・・の長さですよね!
雨は上がりましたが,結構,時に強い風が吹いていました。
【湯築城跡の発掘調査は、1988年(昭和63年)に開始され、これまでに公園の南部を中心に約2万平方メートルについて調査をしています。公園の南部では、外堀の内側に排水溝をともなった道路が巡り、その内部は、西側では建物の周囲を土塀などで小さく囲んだ「家臣団居住区」、東側では広い区画内に「庭園区」をともなう「上級武士居住区」が発見されるなど、城内が機能や格式によって使い分けられていた様子が明らかになりました。また、遺構とともに多種多様な遺物が豊富に出土し、当時の湯築城内の生活を復元する上で貴重な資料が得られています。】だそうです。
展望台からは,松山城もよく見えました・・・こちらは,江戸時代ですよね!
松山城は,関ヶ原以降です。
松山には,今年の10/03に大学の用事できまして・・・松山城には登りました。
案内板もあります。
史跡は,やはり歴史の重みを感じます。。。数百年。。。もっと前に,同じここを,いろんな人たちが動き回っていたのか,とか・・・。
【道後公園は、明治以来の長い歴史を有する県立都市公園であり、また、中世の時代に伊予国(現在の愛媛県)の守護であった河野氏が本拠地としていた湯築城(ゆづきじょう)跡でもあります。発掘調査をきっかけに、埋蔵文化財調査や公園整備計画について多くの方から関心が寄せられました。このため、平成10年度〜平成13年度に園内の動物園跡地(以下「旧動物園区域」と呼びます。)を中心に文化財を生かした公園整備を行い、平成14年4 月12日、リニューアルオープンしました。また、平成14年9月には国指定の史跡「湯築城跡」となりました。】だそうですよ!
湯釜もあります。【公園内に置かれた石造湯釜(県指定文化財・通称「湯釜薬師」)の宝珠には、河野通有の依頼により一遍上人が「南無阿弥陀仏」と書いたとされます。また、河野通直の命による温泉の効験の刻文も残る貴重な文化財です。】です。
そし深まった秋・・・もう冬来りなば・・・ですが,それも気持ちを安らげてくれます。
朱に染まる山裾ですよね。
公園をぐるりと回ります。
既に葉を落としている木々があるのも,でも,季節の風情として,気持ちを落ちつけてくれています。
ネコちゃんがいました。
良い公園です・・・道後観光の方は,少ないのかも知れませんが,逆に市民公園って感じですよね!
   
ぐるりと回って,再現武家屋敷の辺りに行きましょう! 資料館では,湯築:河野氏のヴィデオも見せて頂きました。
【発掘の成果をもとに間取りを推定し、当時の工法で復元した建物(16世紀中頃)の中には、当時流行した連歌の場面を再現しています。】だそうです。
いろんな遺跡から,再現されていますね!
丁寧に復元されていて,素適でした。
まだ暴風雨もあった影響で,空は陽が射したり,曇ったりで,結構,風は肌寒い感じでしたけれど・・・。
岡山の運動公園でもそうですが,遺跡発掘と再現って・・・自治体などの事業なのでしょうけれど,僕なんかはとっても好きですよね,歴史の重みって,詳しく知らなくっても!
秋は彩で和みます。
土塁の中にも入れました。
池とかなんかも発掘資料に基づいて復元されているそうです。
近くの高校生? 中学生? なんか,丁度,そこここの東屋でお昼ご飯中でした。
【公園内の丘陵の上の湯築城跡は、現在展望台となっている。桜の名所で、花見の時期は大勢の観光客で賑わう。松山地方気象台では現在、道後公園の桜を標本木に指定しており、桜前線の目安とされている。また、外堀と土塁は現在も残っている。】だそうです。
この武士の居住区をぐるりと回り終わると,運動公園やグランドのある辺りにでます。
こちらで晩秋は鮮やかです。
さて,ほぼ一周しましたね!
来ていた学生さんと引率の先生の会話から「暴風警報」が出ていたそうです。
それぞれの木々の秋は,彩を種々に変化させますね。
ぽんかん,の,木も伊予ならでは!
深い秋があります。
  
そして,道後公園/湯築城址から,更に東へ/奥へ・・・石手寺を目指しましょう!

石手寺に来たのですが,ちょっと横道から境内にはいってしまいました。
パゴダのある辺りです。
 【パゴダ (pagoda) とは仏塔(ストゥーパ)を意味する英語である。日本ではもっぱら、ミャンマー様式の仏塔のことを意味する。日本の仏塔と同様、仏舎利(釈迦仏の遺骨等)または法舎利(仏舎利の代用としての経文)を安置するための施設である。】なのですよね。
    
そして,鐘楼の辺りへ・・・。
ここで一旦,山門脇から,県道沿いからの参道の方へ向かいます。
 
さて,云わば正門から入る・・みたいにしましょう! 第51番札所! 門前には市もありました。
近くを歩き過ぎていて,見逃しましたが,山頂には,弘法大師像の大きなものがあって,インドの方角を眺められてらっしゃるそうです。
参道の入り口から,所せましと,いろんな像などがあります。
この沢山並んでいる処が,また,雰囲気につながりますね。
参道わきには,地蔵院もありました。
そして,山門の方へ向かいます。
【 山門(二王門):国宝。三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺き。『伊予古蹟志』に文保2年(1318年)の建立とある。様式的にもその頃の建立とみられ、鎌倉期建築の特徴がよく現れている。上層の回縁の出が大きく、入母屋屋根の反りが高い。組物は上層・下層ともに三手先(みてさき)とし、中備(なかぞなえ)は正面は三間とも本蟇股(ほんかえるまた)、側面は間斗束(けんとづか)とする。門内に安置する金剛力士(仁王、二王)像は鎌倉時代の作で愛媛県の有形文化財に指定(寺伝では運慶一門の作というが実際の作者は不明)】だそうです。

大きな草鞋もありました。
仁王像です。
さて,境内に入って・・・どのように巡って行きましょうかってくらいに,伽藍なども多いです。
三重塔も見えてきますね!
正面の薬師如来から・・でしょうか?
実際のお寺さんのパンフレットには,右回り,あるいは左回りでの巡礼の方法っていうか道順があるのですが,それとは,ちょっと違って廻りましたね。
もう一度,パゴダの方にみお向かいました。
気持ちを静めて,そして御先祖様に守られていることを感謝することで,でも,いいですよね! お寺さんにお参りする時は・・・。
【本堂 - 本瓦葦き、正面側面とも五間、単層入母屋造りの仏堂。鎌倉末期。重要文化財。大師堂 - 弘法大師像が安置されている。かつては壁に正岡子規、夏目漱石ら多くの文化人の落書きが記されており、「落書堂」とも呼ばれていたが、壁は第二次大戦中に塗りなおされている。】ということです。
そして日々の生活では驕らず静謐に・・・って思います。
【# 三重塔:周りで四国八十八箇所のお砂踏みができる。重要文化財。# 訶梨帝母天堂:訶梨帝母尊(鬼子母神)を祀る堂。鎌倉末期。妊婦は堂周りの石を持ち帰り、無事に出産すると石を2つにして返すという風習がある。重要文化財。】です。
甍が連なる様子にも,そこに祈りをささげる衆生の気持ちが連綿と続く様子が伝わってきます。
肌寒い感じの日でしたが,何組かの御夫婦とか,来られていました。
改めて沿革ですが【 寺伝によれば、神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来刻んで本尊として安置して開基したという。創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813年)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたとされる。寛平4年(892年)河野氏に生まれた子どもが石を握っていという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められた。河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院であった。しかし、永禄9年(1566年)に長宗我部元親による兵火をうけ建築物の大半を失っているが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れている。】だそうです。
秋の彩が背景にあるのも,それは敬虔な気持ちにさせてくれます。
【県道より伝説の残る渡らずの橋、衛門三郎像の横を過ぎ、回廊のある石畳を行くと山門前に至る。右に茶堂・納経所、鐘楼が、左に阿弥陀堂があり、奥に進んで一段高い位置に左側の石段を上ると本堂が建つ。本堂左奥に観音堂、右に絵馬堂と十二社権現があり、その先に大師堂が並ぶ。本堂大師堂の背後にある山にはマントラ洞窟といわれる洞窟があり、金剛界・胎蔵界のマントラを表現している。大師堂右側には訶梨帝母天堂があり、石段を下りるとその右に三重塔が、左に一切経堂、護摩堂、弥勒堂が並ぶ。ここから左奥に入ると宝物館、大講堂がある。】だそうです。
時間をたっぷりと境内を散策し,祈りを捧げることが出来ることにも,感謝です。
写真は,ほぼ巡った順に・・・ですね。
子授け石もあります・・・この背景には,いろいろと深い事情・・・仏陀の教えもあるとのことで,詳しくは石手寺さんのHPをご参照ください。
【訶梨帝母天堂:訶梨帝母尊(鬼子母神)を祀る堂。鎌倉末期。妊婦は堂周りの石を持ち帰り、無事に出産すると石を2つにして返すという風習がある。重要文化財。】
山懐に抱かれている様子に,世情から離れて祈りを納める気持ちが清められる様です。
東横の山門を一度出る感じですね。
そして,もう一度,宝物館の方へ,入っていきます。
ここでも秋色は鮮やかです。
朱に映える想いって感じでしょうか!
【練供養:寺伝によると、十二社権現をはじめとする諸仏の来迎を夢に見た伊予太守の越智玉純が、十二社権現を祀るために建てた勅願所が、本寺の由来であるとされる。それを記念して、毎年4月4日、古式の作法に従い、諸仏の来迎を再現する「練供養」を行っている。また、その式典には奈良時代、鎌倉時代作の面や装束が用いられる。 】があるそうです。
【石手寺(いしてじ)は、愛媛県松山市石手にある真言宗豊山派の寺院。熊野山(くまのさん)、虚空蔵院(こくうぞういん)と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所霊場の第五十一番札所。遍路の元祖とされる衛門三郎の再来伝説ゆかりの寺でもある。道後温泉の温泉街から近いため、遍路の他にも、観光客で賑わうことが多く、2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において1つ星に選定された。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:西方を よそとは見まじ 安養の 寺に詣りて 受くる十楽】

だそうです。
本坊の方に入っていきます。
こちらは,いろんな仏陀の生涯でしょうか? 展示してあります。
全体にいろんな想いが詰め込まれている印象ですが,そこにまた仏教に縋る衆生の気持ちが映し出されている感じもしますね。
お釈迦様の生誕インドなど,あるいは南アジアのイメージも強い感じですね。
出口の直立タヌキ君は,とっても和風ですが。。。
外には,18世紀位の築の住居建物もありますね。
いろんな歴史です。
藁ぶき屋根です・・・。
いろいろな秋と信心を学びますね。
正岡子規の句碑などもありました。
花は季節を,そして季節なりに人の想いも漂います。
線香を,そして,手向けて祈っておかないとなりませんね。
線香の煙を寄せて包まれておきましょう。
本当にぐるりと回らせて,参らせていただきました。
秋も愛でることが出来ました。
さぁ,ご一緒になった方々と,山門を再び抜けて,戻りましょう。



道後温泉の方へ戻る(懇親会前のリハーサルの時間になってきています)途中には,こんな様子も。
  
区々には,俳句の碑なども(俳句道ってなっていました)・・・。
秋の色合いもいろいろです。
こんな場所も・・・

そして,道後温泉に向けてですが・・・。熟田津の道だそうです。
もう一度,道後温泉,本館です。
千と千尋でもありました・・・建物横の梯子段です。
  
お湯の石があります。
懇親会も,道後大和屋本館宴会場でした。
  
その廻りには,句碑が沢山。
二次会でも12/002にリハをしたMONKさんに集まって・・・久しぶりにとっても沢山演奏させてもらいました。ドラムは松山でプロでされてらっしゃるデューク谷本さん,ありがとうございました。
その帰りのイルミネーションです。
翌朝は,特急「南風」でしたが,ほとんど寝てました。
  
ちなみに往路は高速バス:マドンナエキスプレスでした。
動画です(大学と瀬戸大橋)