2010.11.27-28

下関の「海峡メッセ下関」という会場で,第54回中国四国合同日本産業衛生学会 が,行われました。
会長は,山口大学医学部環境保健分野の原田教授でした。
  
今回,監事を仰せつかっていて監査報告をしないとならないこともあって,一般演題も出して,参加してきました。
下関・・・初めてだし・・。
懇親会では,鮟鱇の解体実演がありました。

(動画で一部始終撮ったつもりだったのに・・・残っていませんでした,何か失敗したみたい)
2日目朝の特別講演では,産医大の森本先生! 来られるの知らなかったです。ご活躍ですね!
下関は海峡の街! 会場からも九州の山々も見えています。
会場「海峡メッセ」に併設されている「海峡ゆめタワー」もそびえたっています。
 


さて,ちょっと早目に到着する旅程にして「ちょっと寄り道/ブラ@タケミ」です。
駅前から,赤間神社までの往復ですが・・・。
電話ボックスの上には,「ふく」のレプリカ・・・後で亀山八幡宮に本物がありました。
駅前の小さな公園にも,像が! そして,会場「海峡メッセ」に併設されている「海峡ゆめタワー」はどこからでもとっても良く見えます。
 
旧山陽ホテル後・・・日本初のステーションホテルとして明示35年に開業。火災で対照12年に再建された建物だそうです。でも,今は立ち入り禁止になっていましたけれど。
湊です。環境です。この辺りは,「下関商港」だそうです。
普段,海辺からは遠くに居るので。。。。こういうシーンだけでも,なんだかワクワクしちゃいます。
関門海峡です。なんだか,見えただけで感動!
  
海峡ゆめタワーもしっかり見えていますし・・。
  
そして,海響館・・・水族館です。
観光用のヘリコプターとか・・・「青春交響の塔」です。これは高杉晋作と坂本竜龍馬の友情が日本の石柱で表現されているそうです。
彼方には門司港の・・「門司港レトロ展望室」も見えています。
そして,巌流島へ行く観光船の発着所などがありました。
  
バコタ・・めかり山荘の近くの塔は・・でも,九州ですね・・1kmないそうですね,狭い処は・・・でも,こちらは,そのまま青森まで続いているし・・向こうは鹿児島や長崎まで・・って最初にこの海峡を見ても想像出来ないですよね!
さて,赤間神宮に到着しました。
【赤間神宮は、山口県下関市にある神社である。旧社格は官幣大社。壇ノ浦の戦いにおいて幼くして亡くなった安徳天皇を祀る。江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、「耳なし芳一」の舞台でもある。】です。
関門海峡も可也,狭くなった辺りです。
下関は,NHK大河ドラマの「龍馬伝」で多分沢山の観光客。でも和服のご婦人もいいですね。
【水天門は壇ノ浦を臨み鮮やかな竜宮造り。「海の中にも都がある」という二位の尼の願いを写したものといわれています」とのことで,竜宮城を模した神門。「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることによる。】だそうです。
朱い神宮の造りに,紅葉が迫っています。
【文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は御裳川で引き上げられ、赤間関(下関)・紅石山麓の阿弥陀寺境内に埋葬された。建久2年(1191年)、勅命により御陵に御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させたのが始まりである。以後、勅願寺として崇敬を受けた。】と,仏式だったのですね。
沢山の参拝客に,巫女さんたちも忙しそう。
神宮も紅葉に溶ける様です。
 
【5月3日の先帝祭(せんていさい)では、上臈道中(じょうろう どうちゅう)の最終地点として境内に橋がかけられ、上臈参拝(じょうろうさんぱい)が行われます。】ですって。
【明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。また、歴代天皇陵の治定が進む中、安徳天皇陵も多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内のものが阿弥陀寺陵として公式に治定された。明治8年(1875年)10月7日、赤間宮に改称し、官幣中社に列格した。昭和15年(1940年)8月1日、官幣大社に昇格し赤間神宮に改称した。】明治維新はすべての概念が変化したのですね。
右隣には,「鎮守八幡宮」です。
こちらも朱色の世界です。熱心にお祈りされているのは,地元の方でしょうか。
【由緒: 貞観元年(859)大安寺の行教和尚が、豊前の宇佐八幡宮から京都の岩清水に分霊を勧請する途中、日本の西門の守り神として阿弥陀寺とともに建てたと伝えられています。 それ以来、鎌倉幕府を始め、大内、毛利両氏の崇敬が厚く、阿弥陀寺とともに栄えました。阿弥陀寺が天皇社、赤間神宮となっても、鎮守八幡宮は変わることなく鎮座していましたが、昭和20年の空襲で社殿などを焼失し、養治小学校の奉安殿を移築して仮本殿としました。その後 同29、37年の2度に渡る戦災復興造営事業を中心に、氏子による奉賛により、本殿、拝殿が再建されました。弘安5年(1282)の古文書には、弘安の役(2度目の元寇)の際に、山陰沿岸や関門海峡までフビライ軍の船が来襲してきたが、そのとき不思議にも、この鎮守八幡宮の神殿の扉が自ずから開いて、光る玉が海中に飛んでいったかと思うと、たちまち大風になって、敵船をことごとく吹き破った、と記されているそうです。 また、源平壇之浦合戦の時には、劣勢になった源氏の大将が八幡宮に祈ったところ、白い旗が天から舞い下り、それから形勢が逆転して源氏の大勝となった、とも伝えられています。 八幡神は源氏の守護神であったそうですが、その神宮寺であった阿弥陀寺に安徳帝の遺体が葬られ、今では源氏を勝利に導いた鎮守八幡よりも、赤間神宮の方が有名になっているというのは皮肉な話です。】だそうです。
まだ奥へ行けますが・・・ここの辺りには,観光の方々は来られていない様子で・・・。
こちらには大連神社があります。【大連神社は、山口県下関市にある神社である。かつて日本の租借地であった関東州の大連市(現 中華人民共和国遼寧省大連市)にあった大連神社の神体を日本に持ち帰り再建したもので、赤間神宮境内社となっている。天照皇大神・大国主大神・明治天皇・靖国神を主祭神とする。】
こんな船の展示というか,参道にありました。
【威徳殿には、旧大連神社から持ち帰った神宝が保管されている。また、門には満州国国務総理大臣を務めた張景恵の書による扁額がかけられているほか、門前の狛犬も中国風のものとなっている。】だそうです。
【明治40年(1907年)10月1日に創建された。大連に住む日本人より氏神として崇敬され、1944年に旅順の官幣大社関東神宮が鎮座するまでは関東州の中心的な神社であった。昭和20年(1945年)8月の第二次世界大戦の日本の敗戦の後、ソ連軍が満州・関東州に進攻し、日本人の住居や商店などが襲われた。大連神社にもソ連兵が上がり込んだが、神職が雅楽や舞楽を披露してそれがソ連兵の間で評判となり、大連神社は全く被害を受けなかったという。大連神社の神体と神宝は、昭和22年(1947年)3月14日、元大連神社宮司・水野久直の手によって日本に持ち帰られ、福岡市の筥崎宮に仮安置された。その後、水野が赤間神宮宮司に赴任した際、その境内に小祠を建てて大連神社の神体を遷し祀った。昭和48年(1973年)の第60回神宮式年遷宮の際に古社殿を譲り受け、昭和55年(1980年)、本殿北東の現在地に移築して正遷座祭を行った。なお、大連市の大連神社跡地には、大連外国語学院が建てられている。】だそうです。
山深くなっています。
その横には,紅石稲荷神社です。
【祭神:宇迦之御魂大神。由緒:源平の争いが起こり、平家一門が安徳天皇を奉じて西走する際に、守り神として京都の伏見稲荷大明神を勧請して船に乗せました。そして壇之浦に到着すると、眺めのよい紅石山の地を選んで、神霊を安置して祀りました。紅石稲荷神社:それ以来、神徳は西海に広くおよび、多くの人々の崇敬を受けましたが、昭和20年7月2日の空襲により社殿を焼失。鎮守八幡宮宮域内に仮殿を設けて、一時的な宮居としました。その後、源平800年を迎えようとする昭和58年の秋に、この地を選んで神殿を造営し、昭和59年2月6日に竣工、遷座式と祝大祭をとりおこないました。】だそうです。
銀杏の黄色が西日に映えています。
境内横の建物は・・・何でしょうか? でも,落ち着いた雰囲気です。
どなたかの閑居って感じですね。
壇ノ浦も臨めます。
関門橋も見えていますね・・・。
多くは散っていましたが・・・
さて,赤間神宮の本殿に向かって左側・・【芳一堂 - 「耳なし芳一」を祀り、芳一の木像を安置する。】です。
【芳一堂:ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の小説「耳なし芳一」で有名になった琵琶法師 芳一を祀ったお堂です。このお堂は、昭和32年に市内の有志によって建てられたもので、山口県防府市出身の彫刻家押田政夫氏 作の芳一の木像が祀られています。 毎年7月15日には、芳一まつり(正式には、供養祭です)として、芳一堂と七盛塚の前で、琵琶の演奏と墓前祭が行われ、屋外劇やミニコンサートなども行われます。琵琶法師:琵琶を弾きながら物語を語る、盲目の法師のことです。本来 琵琶法師は、琵琶を伴奏に〈地神経〉などを唱えて荒神、地神を供養する僧で、余興として物語を語っていました。下関では、長府の金町の裏に、盲僧たちの集まる地神堂があったそうです。それが鎌倉時代に入って平家物語を語る琵琶法師が出てきて、武家に指示されて室町時代に流行しました。しかし江戸時代になって衰退し、現在の伝承者は数人のみとなっています。特に平家物語を語る琵琶は、平曲とも呼ばれます。下関は平家滅亡の地であり、九州へ渡るための滞在地であったので、全盛期には百数十人の琵琶法師たちがいたといいます。】です。
そして,平家一門のお墓があります。
更に,水子供養塔ですが,これも平家伝説というか,平家滅亡にまつわる供養塔の様です。
この奥の紅石山の樹林は自然記念物なんですね。
此処にも紅葉が西日に映し出されていました。
深まる秋というか,もうすぐ冬ですね。朝晩の冷たさも・・・・。
この日は大安ではなかったようですが(先勝でした),境内では二組の新郎新婦が・・・。
さて,また会場の方へと戻りましょう。
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日清講和記念館があります。
伊藤さんと陸奥さんですね。。。。
   
陸奥宗光さんって,モジリアーニが描いた人物みたい・・・。
【明治28年(1895)の日清講和会議に使われた調度品や資料などを公開するために、講和会議の行われた料亭春帆楼の隣に、昭和12年(1937) 開館された記念館です。 中には講和会議の席が再現されています。展示品の中でも椅子は、かっての浜離宮の調度で、ランプ、ストーブ、硯箱(すずりばこ)、インク壷、朱肉入れなどと共に、講和会議の様子を今に伝える貴重な歴史資料となっています。他にも、伊藤博文と李鴻章の遺墨や、李鴻章が引接寺に泊まったときに使われた、シャクヤクと孔雀の描かれた見事な屏風なども展示してあります。】です。
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そして,本陣 伊藤宅跡です。
【本陣とは、江戸時代、参勤交代などで大名が宿泊したり、幕府の役人が宿泊したりする公的な宿のことです。下関では、西の佐甲家とともに伊藤家が代々 本陣を務めていました。伊藤宅には、朝鮮通信使やシーボルトといった外国の使節も宿泊しました。】だそうです。
【幕末には、真木菊四郎や、坂本竜馬も滞在しており、竜馬はここを自然堂と名づけ、薩長同盟の実現に奔走しました。また、竜馬の妻 お龍は、いろは丸事件の発生した慶応3年4月から伊藤宅にあずけられ、10月15日 竜馬が京都の近江屋で暗殺された時にも伊藤宅に滞在していました。碑のそばには、明治天皇の行幸の際に使われていた、手水鉢が置かれています。伊藤とは言っても、伊藤博文とは、まったく関係はありませんので、あしからず】だって。
さて,海峡沿いを西南へ戻っていきます。
  
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そこには「亀山八幡宮」です。
【享保年間の『防長社寺由来』によれば、貞観元年(859年)、行教が宇佐から石清水へ八幡神を勧請する途中、当時は島だった亀山に碇泊した。そのとき、「この山は清浄な地であるので、しばらく祀ってから先へ進んでほしい」と神託があったため、亀山に行宮が設けられた。この行宮が当社の起源であるという。関門海峡鎮護の神社として歴代領主の大内氏・毛利氏らの崇敬を受け、下関の総鎮守、長門国三宮とされた。1874年(明治7年)に郷社に列し、1890年(明治23年)に県社に昇格した。1968年(昭和43年)に神社本庁の別表神社に加列された。境内には、山陽道の終点を示す碑が建てられている。】だそうです。ついでに床屋発祥の地の記念碑も!
   
こちらも大きな神社です。こちらはHPも充実しています。
【亀山八幡宮は、下関市の中心地に祀られています。御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・仁徳天皇。平安時代・貞観元年(859)に宇佐八幡宮から勧請されました。「関の氏神さま」「亀山さま」と親しまれている亀山八幡宮がある地は、古くは島でありました。平安時代・貞観元年(859)に、京の都の守護のため宇佐神宮(大分県)から石清水八幡宮(京都府)に勧請される途中、この島の麓に停泊されました。その夜、「此の山清浄なり、我もっとも愛す。暫らく祭祀し奉り路を進むべし」とのご神託があり、供の勅使は国主に命じ仮殿を造営させてお祀りし、再び京に向かわれたと伝えられています。(享保年間「防長社寺由来」記載)「亀山」という名称は、当時島の形が亀に似ていたとも、宇佐の八幡様がお祀りされている山が亀山だからともいわれています。】だそうですね。
下関ならではの「ふく」の絵馬・・・絵河豚?
 
宮地獄神社です。
【このお社は、日本一の大しめ縄で有名な、福岡県宗像の宮地嶽神社から勧請されました。本社・宮地嶽さんは古くから開運・商売繁盛の神様として、近隣のみならず遠方からも多くの参拝者が訪れる有名な神社であります。亀山八幡宮の氏子さんの中にも多くの崇敬者がおられたようで、この方々のお力により慶応2年(1866年)ご威光を賜りたいと境内にお祀りされました。昭和20年6月29日先の戦禍で社殿灰燼後、22年に貴船町の貴船神社社殿を移築してお祀りし、現在の社殿はご鎮座100年を記念し昭和40年9月20日に造営されました。現在も多くの崇敬者で組織された「宮地嶽神社敬神講」があり年2回祭典が行われ、5月22日に近い日曜日には本社参拝旅行が続けられています。】だそうです。
お隣は,熊鷹稲荷神社です。
【御祭神:倉稲魂命。由緒御鎮座の年代は不明ですが、京都の伏見稲荷大社に鎮まります熊鷹社から勧請されたと伝えられています。また、“人助け稲荷”とも称され多くの方々に崇敬されています。現社殿は昭和天皇御即位50年を奉祝し、崇敬者の募財により建立されました。例祭:3月初午日(初午祭)・11月10日(御鎮座記念祭)※お稲荷さんは商売繁盛の神さまというイメージが強いですが、五穀豊穣を祈る農業の神、又病気平癒などの神さまとしても広く信仰されています。】です。
そこには,四角い土俵?もあって,そして林芙美子・・・放浪記です・・・の碑も・・・尾道にも放浪記にまつわる碑がありますが,生まれは下関なんですね。
 
境内をぐるりと回りましょう!
【由緒:神社地は古くは島でしたが、江戸時代の始め頃、街の発展のために陸続きにする埋め立て工事が、毛利藩によっておこされました。しかし海峡の潮の流れは、ひと岩沈めればひと岩を流す急潮であり、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみでなかなか成し遂げられませんでした。時に稲荷町(現・赤間町。当時江戸の“吉原”・京の“島原”につぐ三大遊廓の一つ)の“お亀”という疱瘡を病み顔に「アバタ」のある遊女が、町かどに立った人柱募集の高札を見て「我が身を滅して功あるならば」と人柱に立ち、月夜の海に白衣に身をつつみ、海に身を投じて埋立の礎石となりました。その後急潮に悩まされる事もなく難工事も無事に終わり、時の人は境内にイチョウの木を植えお亀さんの功績を讃えました。これがお亀イチョウです。お亀イチョウは先の戦禍にあい焼失しましたが、お亀さんの遺志を継ぐかのように新芽が成長し、今なお母なる木の面影をしのばせています。お亀銀杏:毎年秋に無数の実を結ぶ銀杏には、不思議にもたくさんの斑点があり、お亀さんの顔のあばたが残ったものと伝えられ「お亀銀杏」といわれています。
この実は明治の頃に天然痘が流行した時、多くの人に疫病除けのお守りとして求められました。
】がりました。
本物も造り物も,同じ様子でじっと動きません。亀さんです。
広い境内に・・・そうそう,「ふく」の大きな像?も・・・・。
こちらでも巫女さんが・・・夕暮れでお賽銭を集められてらっしゃいました。
【狛犬は、お宮にお参りすると必ず見ることができ、古くから親しまれなじみになっていますが、その由来についてはあまり知られていません。獅子に似た狛犬は、獅子と高麗犬が混同されてつくられた架空の動物で、インドの信仰に発生し、中国をへて日本に渡来。中世期の神仏習合にともない神社内にも置かれるようになったといわれ、魔除け・守護・装飾としての役割が託されています。お宮を守っている狛犬は必ず一つは口を開き、一つは口を閉じています。子持ち狛犬の向かって左側のものは、幼い狛犬2匹を、胸に抱きそして背に負い、右側のものは1匹を背負い、空に向かって口を開けています。この組合せを見ると、母親に2匹の子供がまつわりつき、少し大きな子を背負った父親がこれを守るといった、親子5匹のまさに平和な家庭を思わせます。また当宮の子持ち狛犬は大変珍しく、体長は約1メートル(台石を含め、高さ2.6m、横1.5m)と非常に大きく、なかなかの傑作。台石には「文久3年(1861年)12月吉日 発起人黒崎屋善文」と刻まれています。】と,亀山神宮さんのHPより・・・。
しかし,海峡の街ってイメージが拡がりますね。
この辺りは「唐戸」というエリアの様です。
旧秋田商会ビル’(下関観光情報センター)西日本初の鉄筋コンクリート造りのビルだそうです。屋上には日本庭園や日本家屋もあるそうで・・・少しなんだか神社の屋根みたいなのも,見えていますよね!
海響館沿いです。
そして,海峡メッセの駐車場沿いの舗道ですが・・・・。
  
旅先でのこういったものって気持ちがほっとします。
さて・・・海峡ゆめタワーと,園横の海峡ゆめ広場にも等が建っています。
ゆめ広場もコンクリートの広いスペースですが,夏などは,皆さん,集まられるのでしょうね・・。
くじらクンも居ます。
「風」----「花と乙女」,「走る」そして「背伸び」です。
    
二日目の日曜日には,フリーマーケットがあ開催されていました。
海峡ゆめタワーは「恋人の聖地」に認定されているそうですが,そういえば,去年かな,名古屋のTV塔にもその記載がありました。
懇親会の後・・・宿に戻る区々・・です。
駅前のこれは結婚式場さんでしょうけれど・・・。
どこの町でも,イリュミネーションしますね。
下関駅と・・・宿の近くです。
駅前のビル間の連絡通路の様な遊歩道には,こんな像も。
  



さて,今回の旅程は,往路は山陽本線の旅でした。中庄→岩国→新山口((小郡)→下関です。
←中庄 
岩国→
岩国から柳井までは,海岸線を走ります。素晴らしい!
安芸灘ですね。
動画です
釣りというか漁船でしょうが・・・も点在しています。
大島(周防大島町)ですね。
冬の陽射しに海面が輝いています。
徳山です。
  
新山口(小郡)です。

下関到着!
  
翌日は,勿論,下関出発ですが・・・。
  
駅の構内にも「ふく」が・・・。
彦島との海峡が見えています。

そして,関門トンネルを渡って,小倉まで!
いつもながらJR九州の車両は格好良いです。
  
新幹線で,福山へ,そして在来線で,中庄へ戻りました。