2010.11.18.
午前中は,南区築港緑町の岡山労災病院へ・・・検体のことで行ってきました。
 
大学に戻ってすぐ,今度は,岡山ロイヤルホテルで,おかやま生体信号研究会の幹事会と第5回例会です。
 
則次先生初め,いつもの先生方でした。
そして,今回の例会は,岡山県産業振興部も共催です。
  
岡山大学生理学の成瀬教授の講演や・・その他,OG技研さんの生体信号を用いた福祉機器などの講演でした。
成瀬先生ご紹介の簡易脳波計は・・・1点のみで,attention と meditationの区別になるそうです。
米国では,集中が高まると何かが浮くとかといった,おもちゃ用途で沢山使われてヒットしているそうです。
面白い!
今回のホスト校は岡山県立大学でしたので,その後,県立大のコーディネータの湯浅氏,そして,スポーツシステム工学科 教授 平田敏彦 先生,情報システム工学科 山ア大河 先生のお話がありました。
最後は,県産業振興財団より閉会の挨拶でした。
  
ホテルはもう,クリスマスでした!!

さて,本日の「ちょっと寄り道」/「ブラ@タケミ」ですが
藤田陽水・・・・米倉底樋吐出口の処の整備された小さな講演です。
ここは【岡山市の南部で旧児島湾干拓地に位置し、老朽化した用排水施設を再編成・再整備するものです。用水吐水槽は高さ33.1mのPC構造のタンクで地域のシンボル的建築物です。公園の池はホタルの生息のため循環システムを取り入れています。】とのことです。
児島湾干拓の話ですね。
秋が色付いていました。
この様な説明を見つけました【藤田用水:児島湾干拓は明治32年に藤田伝三郎によって工事が始まりました、児島湾は底無しのような泥海で、堤防が出来てもその重みで全部が泥盤に沈んでしまう、そんな繰り返しの難工事であったそうです。干拓地は、山の細粒土が堆積しているため土地は肥沃であるが水田地帯では、そこに水が通わなければ生きた土地にはなりません、また、逆に水が溢れても困り、利水と排水が自在でなければなりません。これが干拓地造成における最大の課題でした。先行開拓された興除新田の水は、高梁川流域に水利権を持つ湛井用水の余り水を利用していたが、その下流にできた藤田村の用水は極めて不安定でした。管掛用水は岡山市玉柏地崎に旭川の取入口を有し、岡山市に入り西川用水となり市内西北部一帯を灌漑した後、北長瀬に集溜して、笹ケ瀬川左岸地区を灌漑して、平田から米倉に至り。余水は米倉大樋門から笹ケ瀬川に放流していました。明治43年5月、笹ケ瀬川に木管伏超を敷設し藤田村への送水に成功したが、なお通水量が不十分なため、明治44年4月に宇野線鉄橋下にもう一基増設されました。その後、岡山県の旱害応急対策事業として、米倉大樋前より笹ケ瀬川米倉伏超樋を通じて南に下る藤田用水新川が誕生し、川筋の家屋は移転し、手掘りの難工事でした。また笹ケ瀬川に埋設された旧サイホンは上下二基とも老朽化し水中に露出し使用に耐えなくなったため、下流伏超樋延長290メートル、内径1.4メートル、そして上流200メートル、内径1.4メートルのサイホンを埋設し錦農区三角地揚水ポンプで笹ケ瀬川の地下をくぐり藤田村への灌漑用水としていました。工期は昭和8年1月4日に着工し翌年6月30日に竣工している。工費は約10万円を投じたとされています。(今から70年前)】だそうです。
笹が瀬川が青空に映えています。
その閘門かな,吐出口については,もう字が薄れそうな説明板もありました。
こうやって,岡山県は海岸線を沢山,変化させていったのですね!
それでも晩秋の青空に,歴史の向こうを感じることが出来ればいいですね。
水門や用水路の町・・・閘門などの町も,なんとなく,歴史と人々の努力を感じさせてくれます。
   
藤田用水機場は,立派な建物ですね。