2010.10.3.

大学の用事で松山に行きました。
中庄駅→福山駅:そこから高速バス「しまなみライナー」で今治へ・・です。

芦田川・・・福山の西を流れます
しまなみ海道です(動画)
(動画の中では「街道」と書きましたが,「海道」が正解みたいですね。多々羅大橋も,一部「多々良」って書いてしまってます)
雨になりそうな曇天と・・・バスの窓に何かフィルターがあるのかな? 青っぽい写真ですが・・・。
向島→因島→生口島(ここまで尾道市)→大三島→伯方島→大島と比較的大きな島を渡って行きます。
多々羅大橋は斜張橋ですね,美しい!
最後は3つの橋をまとめて来島大橋です。
  
【海峡部の橋梁として新尾道大橋、因島大橋、生口橋、多々羅大橋、大三島橋、伯方・大島大橋(伯方橋、大島大橋)、来島海峡大橋(来島海峡第一大橋・来島海峡第二大橋・来島海峡第三大橋)の10本(尾道大橋を含めて11本とすることもある)がある。総事業費7,464億円。1999年5月1日に橋梁全ての整備が完了し、一般的にはこの時点がしまなみ海道の開通と見なされている。ただし、この時点では島嶼部での自動車専用道路が一部未整備で既存の生活道路を利用する区間があり、これらと接続する本線料金所としての利用を本来想定していないインターチェンジを含め混雑が発生し、特に開通直後には大きな問題となった。2006年の大島北IC-大島南IC、生口島北IC-生口島南ICの開通により、見かけ上は一本の道路として繋がった。来島海峡大橋区間の通行料金は普通車で1km当たり約232.88円で、それまでの日本一だった瀬戸中央自動車道海峡部に代わり日本一の高額料金区間となっている。また、通行料金の収受業務は広島県内は本四バス開発に、愛媛県内は瀬戸内しまなみリーディング・芸予開発・大三島道路サービスの3社に委託されている。】です。
四国に入ってからの等は,来島海峡海上交通センターの塔でしょうね。

このバスでした。
今治駅からは,JR四国普通列車で松山まで向かいました。

今治はタオルが名産です。
JR四国の普通列車の車内ですが,4人掛けの椅子と,窓沿いの横長の椅子が左右に分かれて,客車の半分ずつで分かれています・・・。
面白い!
海岸沿いを走ります(動画)。(動画のテロップで「予讃本線を予算って書いてます,失礼!)
それだけに海とか波にまつわる駅名も沢山・・・稲刈りが終わった田圃もありました。

松山到着です。
正岡子規ですね,そして漱石の「坊っちゃん」です。

駅からまっすぐ東へ進む広い道路の真ん中に伊予鉄道の線路と市電の線路が直角に線路同士で交差しています。
 
愛媛新聞社の前では,来年のカレンダーの撮影(?)をしていました。
  
さて・・・松山の中心の小高い岡は,松山城・・公園です。お堀がぐるりと・・
市電の駅名も,西堀端,南堀端とかです。
お堀のある町は,それだけで和みますね,なんとなく。
今日は,こんなお祭りっていか・・・
   
法被姿の人たちも・・・。
城山公園ですが,市民会館・NHK・県立美術館などがあるのですね。。。。
昨年NHKで放送した「坂の上の雲」が大PRされていました。
広い芝生が広がっていますが・・・丁度,もう天守閣とか二之丸史跡が見えてきます。
すごい高く積み上げられた石壁の城壁です。
さぁ,入っていきましょう!
まずは,二之丸史跡庭園ですね・・。
【松山城二之丸史跡庭園は、表御殿跡と奥御殿跡に大別されます。表御殿跡は北半分にある「柑橘・草花園」で、各地のカンキツ類や草花で昔の部屋の間取りを表現しています。奥御殿跡は西南部にある「流水園」で水と砂利と芝生で昔の部屋の間取りを表現しています。東側の「林泉庭」は、露岩を背景にした池や滝を配置して「わび」、「さび」を表現しています。発掘によって、その規模や大きさが注目された大井戸遺構は、そのまま露出展示しています。庭園内は有料施設として、茶会・句会などの文化的な催しに利用していただくことができる「観恒亭」、「聚楽亭」、「勝山亭」があります。 】とのことです。
櫓は展示場になっていました。
岡全体がお城になっていたのですよね。
本来は,この辺りは「流水園」になっているらしいのですが,今は,水の流れは中止されているそうです。
林泉庭で,日本庭園らしい池などがあります。
小天守もよく見えます。
ここから・・・岡の傾斜沿いに登ると「勝山亭」ですね。
ここも茶室かな?
【二之丸御殿の構成:松山城二之丸史跡庭園は、藩の中枢としての役割を果たす表御殿と藩主の家族の住居、奥御殿からなり、北側の四脚御門を公式の門とし、足軽などの詰所である御徒歩番所、応接座敷である御広間、書院、その他公式儀礼の間と続きます。西側の多聞櫓(たもんやぐら)の門は通用口で、その奥には奥向きの居室や台所・炊事の土間の類が建ち並びます。藩主の御居間は東南の日当たりの良い区域に設けられ、御居間と書院との間には黒炬燵(くろごたつ)之間、柳之御間、棕櫚(しゅろ)之御間それに続き鎖之御間、御数奇屋と茶室も備わっています。】ということです。
この辺りで少し雨がパラつきましたが・・。
ひどい降りには鳴りませんでした。
伊予柑ですかしら,夏ミカンです。
  
水琴窟です。
  
こちらは観恒亭ですね・・・この日は午後に予約が入っているようでした。
よい情緒です。
先の林泉庭から・・・さかのぼって・・・滝があります。
部分々々で趣が変化しますね。
大井戸の遺跡です。
う〜ん,でっかい。
   
俎石ですが・・・これは,ちょっといただけませんね! 暴君も居た様です。
   
さて,可也広い庭園ですが,ぐるりと回って行きましょう。
【四脚御門:公式の入口。大きな柱と控えの柱計4本を一つの屋根の下に入れた形の薬医門であったと考えられる。】だそうです。
こんな石も・・。
  
この庭園をぐるりとするだけで,結構,時間もかかりますね,広いです。
花々も・・・
井戸の方へ廻ると,一周って感じですか・・。
井戸屋形っていうのですね。
 
さて・・・ここから,お城・・天守目指して岡って云うか,山を登りましょう!
先ほどの門などを,外から観て・・・。
結構,樹木も多いです。
可也の急こう配を登って行きました。
ずんずんって登る感じで・・・あまり他には人もまばらです。。。
漸く,石垣が見えてきました。
登ってみて気付いたのですが,地図でもても,一番急坂ですね,この道は・・・。観光客のみなさんは,道後温泉側から,ロープウェイがリフトで来られているようです。---蒸し暑い日で,すごい汗だくになって・・なかなか,汗がひきませんでした。
櫓が可也沢山あります・・・
眺めは素晴らしいです・・・城下を一望ですね!
興居島の辺りもしっかり見えます・・瀬戸内海だ!
南の方の山並みは四国山地ですよね!
紀伊半島の紀の川~徳島〜吉野川〜新居浜〜松山への海岸線〜大分湾って直線で続く谷あいみたいな感じですね。
筒井門〜隠門などが櫓にあります。
筒井門をはいると「坊っちゃん」と二人の「マドンナ」ですね!
太鼓櫓の門をくぐって天守閣前の広場に出ます。
ここからも遠望が素晴らしい!
櫓も沢山ですね。
広場も結構・・・広くなっています。
ずんずんと,天守閣の方へ!
【大天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築です。また、「現存12天守」の中で、唯一、築城主として瓦には葵の御紋が付されています。大天守、小天守、隅櫓を廊下で互いに結び、武備に徹したこの天守建造物群は、わが国の代表的な連立式城郭といわれています。大天守の全高は、本壇から20m(しゃちほこの高さを入れると21.3m)。本壇は本丸から8.3mの高さがあり、本丸の標高は約132mであることから、大天守の標高は約161mあることになります。これは「現存12天守」の平山城の中では最も高い城郭です。山の高さは、同じ平山城である姫路城の約3倍の高さです。】だそうです。
といいつつ,今日は時間も厳しいし・・・また次の機会に中に入りましょう!
【連立式天守とは城郭の象徴である天守の構成分類の一つで、大天守・小天守・櫓を四方に配置し、多聞(たもん)櫓(長屋形式の櫓)でつなぐ形式をいいます。建物で仕切られた中庭ができるのが特徴で、厳重な防備手法であるため天守防衛の究極の姿であるとも言われており、「現存12天守」の中では、姫路城と同じ構成となっています。松山城は、日本で最後の完全な城郭建築(桃山文化様式)として、層塔型天守の完成した構造形式を示していると言われています。】だそうです。
ここから城下を観ていたのですね・・・。
 
ここに井戸っていうのは,相当深いのですね・・・。
観光客の人たちの会話からは,昨晩は道後温泉にお泊りの方が多いみたいでした。
【城山(勝山)山頂は標高約132mで、天守は更に約30m高くそびえたっているため、江戸時代から今日に至るまで、松山城大天守は、圧倒的な存在感を持ったランドマークタワーです。松山平野を360度見渡せるその眺めは正に絶景で、眼下に広がる櫓群など近代城郭の完成度の高さも垣間見ることができます。天気に恵まれれば、西日本最高峰の石鎚山(1,982m)や瀬戸内海に浮かぶ島々、また日本一細長い半島である佐田岬なども見ることができ、江戸時代に建てられた天守から、藩主になった気分で大パノラマを存分に楽しめます。もちろん、連立式の城郭ですので、小天守から別の角度で眺めることもでき、見え方の違いも楽しめます。】あぁ,この山を「勝山」っていうのですね・・・。
(これは今度楽しみましょ)
春夏秋冬・・・いろんな雰囲気になるのでしょうね・・・桜の頃もよさそうです。
太鼓門です。
観光の方たちは,「坊っちゃん」&「マドンナ」と写真を御一緒されてますね。
松山は2回目で・・・前は内科学会か何かの講演会で,会場と駅の往復だけだったので,今日はとっても楽しめています。
さて,大学の用事の会場は東の方で・・皆,リフトとかで上がるんですね!
マドンナ・・・三人目にお出会いする方も,リフトで・・・通勤?
 
この山の東のはずれには,東雲神社がありました。
【 祭神 :* 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ),* 豊受大神(とようけのおおかみ),* 天穂日命(あめのほひのみこと、久松松平家の家祖神),* 菅原道真(すがわらのみちざね、天満大自在天神、久松松平家の家祖)
* 息長福玉命(おきなかさきたまのみこと、東雲大明神、藩祖松平定勝),* 奇足玉命(くしたるたまのみこと、伊予松山藩11代藩主、松山藩中興の祖松平定通),* 真都栄命(まつさきのみこと、伊予松山藩16代藩主、老中松平定昭)* 稚国玉命(わかくにだまのみこと、藩祖松平定勝の嫡男松平定吉)】
だそうです。
【 歴史 :* 文政6年(1823年)、松山藩11代藩主松平定通が、藩祖である松平定勝の神霊を祀るため、京都の吉田家に神号授与を要請し、息長福玉命の神号を得て、松山城山揚木戸に仮宮を造営し仮勧請した。* 文政11年(1828年)、藩祖松平定勝の嫡男松平定吉の神霊を境内の祠へ勧請した(神号は稚国命)。* 天保8年(1837年)、12代藩主松平勝善は、松平定勝の神号授与を再度依頼し、東雲大明神の神号が授与され、松山城内の御社へ正式に勧請した。(この年より、松山城山長者が丘に社殿の造営が開始)* 天保11年(1840年)、社殿が完成し、藩崇敬の神社とした。* 明治13年(1880年)、県社に列した。* 昭和20年(1945年)7月の松山空襲で、社殿など数多くの建物が焼失した。* 昭和46年(1971年)、松山城の西堀端にあった伊勢神宮の分社である松山大神宮を東雲神社の社殿跡地に御奉遷した。* 昭和48年(1973年)、神明造りの社殿が完成、松山大神宮と東雲神社の神霊が合祀奉斎された。】松山空襲で,なかなか,被害は大きかった様です。
山から降りてきて,途中から入ったので,石段を降りて行く感じです。
さて・・・本当に集合時間に近付いてきました,さぁ・・これくらいにして・・。
でも本当にこのお城周辺が町の中心って感じですね。
もう少し東は勝山町,そして道後ですね。
この石段は昇ると結構大変では・・・。さっきの登城の山道よりはよいかも知れませんが・・・。
街中には子規も一杯です。
  
あっ,神輿です・・・さっきのイベントに向かっているのですね・・・。

そして会場のホテルの横には,「坊っちゃん列車」が展示してあります。
でも,走っているのも,見かけました。

さて,会も終了して・・・・帰路は,松山→岡山の高速バス「マドンナエキスプレス」です,車窓から松山の街をもう一度・・・
イベントから帰る神輿も・・・・。
そして県庁の建物は,なかなか,ゴチックで古い佇まいです。
ちょっと疲れましたね・・朝,しまなみ経由にしたので,早かったので・・・。
帰路のバスは,寝たり起きたり,うつらうつらで・・・知らない間に瀬戸大橋でした。