2010.8.1.
大学の用事で大阪でした。少し早目に到着して・・・久宝寺の寺内町界隈を「ブラ@タケミ」/「ちょっと寄り道」でした。
中心辺りにある寺内町ふれあい館でもらったパンフレットです。
西九条駅ではUSJへ向かう列車・・・こんな派手なのとは,知りませんでした・・・
そして,JR関西本線の久宝寺駅から徒歩していて・・・最初は,許麻神社です。
頂戴した案内記です。
境内横の参道から入ってしまったのですが・・・・広い境内の穏やかな感じの神社です。
八尾市保存樹木のくすのきです。
【許麻(こま)神社の創立は不詳であるが、「延喜式」神名帳には小社に列せられており、今から1100年以前より存在していた由緒ある神社で、江戸時代には「久宝寺の牛頭天王」と呼ばれていた。許麻は高麗に通じ、この地は古くは「巨麻荘」または「許麻荘」といい、高麗からの渡来民族が多く住み着いていた。彼らが祖霊として祭祀したのが、後に神社として祀られ、社名に「コマ」が残ったと思われる。また、かっては、この神社と同じ敷地内に「久宝寺観音院」が宮寺としてあり、この寺の創建は聖徳太子が建立された「久宝寺」に遡るが、戦国時代、松永弾正久秀の兵火に罹り、灰燼と化した。幸い、聖徳太子自作と伝わる本尊の11面観音は難を逃れ伊賀の国に疎開したが、紆余曲折を経て、現在は同じ久宝寺町にある、念仏寺に安置されている。久宝寺観音院は1677年(寛文7年)再興されたが、明治初年の神仏分離により廃寺となった。】だそうです。
境内社も多く祀ってあります。
そして厳島神社も・・・その昔は海上交通もあったのでしょうか,この辺りは?
噴水が設えてあって・・・睡蓮も咲いていました。
睡蓮の花弁に・・・糸蜻蛉が・・・
さらに・・・今まさに,の,蝉も・・・まだ,少し動いていたのですが・・・儚さきり,です。まだ木々では喧しく啼いているのに・・。
もう一度,境内に・・・。
沢山の方が,境内の掃除や・・お参りにいらっしゃってました。
さて,本参道から寺内町の方へ・・・。
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この界隈は昔の割濠に囲まれていて,その入り口ごとにっていうか,地蔵尊が残っています・・
最初に出会ったのは,許麻橋地蔵尊でした。
そして西口地蔵尊です。
裏手っていうか,通用門っていうか,庫裡側っていうか,そちらから顕証寺さんにお参りです。
非常に大きな伽藍ですが。。。中には子供連れの御家族もいらっしゃって・・・何か仏事なのでしょうか?
【顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府八尾市久宝寺(きゅうほうじ)にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。 かつて、周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。】です。
【伝承によれば、顕証寺のある八尾市久宝寺地区には、飛鳥時代に聖徳太子が「久宝寺」を創建したといわれている。顕証寺西側の許麻神社(こまじんじゃ)境内には太子創建を伝える久宝寺観音院があったが、明治の神仏分離で廃絶した。文明元年(1469年)、本願寺8世法主蓮如は、近江近松(滋賀県大津市)に顕証寺を創建し、初めは長男順如、その死後は6男蓮淳に住持させた。これは後の本願寺派近松別院となり、寺号は後に久宝寺御坊顕証寺に引き継がれた。そのため、戦前まで近松別院は八尾の顕証寺が法要を勤めていた。】とのことです。
そして【文明2年(1470年)、蓮如は河内渋川郡(現・大阪府八尾市など)を訪れて布教活動を始めた。当初は同地にあった慈願寺(現・八尾市本町)を本拠としたが、明応年間(1492年
- 1501年)、久宝寺跡に「西証寺」を建立した。この時、近くにある久宝寺城主の安井氏は地域住民が一向宗に与するのを見計らい、地域支配を維持するために創建に協力している。蓮如の11男の実順を住持とし、ここを河内一向宗の中心道場とした[1]。しかし実順は永正15年(1518年)、25歳で没し、その跡を継いだ子の実真も享禄2年(1529年)に13歳で早世したため、近江顕証寺から蓮淳を迎え、その時に「顕証寺」と寺号を改めた。】と続きます。
さらに【戦国時代に入ると、戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかるため、天文10年(1541年)頃に久宝寺御坊を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、その内側に碁盤目に道を巡らした寺内町を作った。寺内町では久宝寺御坊がいっさいの支配権をもち、安井氏がこの権利を委されていた。戦国時代が終わると、本願寺の東西分裂に端を発して、慶長11年(1606年)、一部の住人は安井氏と対立して久宝寺寺内町を出て、大和川(現在の長瀬川)の対岸、八尾の荒地を開墾し、八尾御坊(現、真宗大谷派八尾別院大信寺)を中心に八尾寺内町を作った。】となります。
なるほど【慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて徳川家康と豊臣秀頼が衝突した大坂冬の陣・大坂夏の陣において、この地域は主戦場のひとつとなり、辺りは焼き払われ、焼け野原になった。現在の本堂には江戸時代中期・正徳6年(1716年)の棟札があり、この年再建されたものとわかる。江戸時代前半頃には八尾街道の中継地として栄えたが、宝永元年(1704年)の大和川付け替えを境に、地域の中心は久宝寺から八尾寺内町に移っていった。】歴史ですね。
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さて,お向かいには発願寺さんも・・・。
そして,寺内町内を流れる「大水路」と,町名が記された道しるべです。
そして,なんと古い町家が多いことか・・・東の麟角堂址碑や道標も残っています。
真ん中辺りには,念佛寺があって,その横にも地蔵尊が・・・。
【当山は、もとは久宝寺の末院で、念仏勧進聖堂場として栄えていたが、南北朝の1341年(興国2年/暦応4年)念仏回向の寺として、僧龍興により創建され、平野の大念仏寺の末寺となった。また、当念仏寺に祀られている本尊の十一面観音像は、もとは久宝寺の本尊であたっところから、久宝寺観音院とも呼ばれている。現在も続いている地名の発祥の元になっている「久宝寺」は聖徳太子が建立した46仏閣のうち、22番目に当り、七堂伽藍の大寺で当時河内国の仏法の中心地に位置していたと伝わる。】ということです。
それほど広くは無い境内ですが,落ち着いた佇まいでした。
【この久宝寺が松永弾正の兵乱や慶長の兵火に罹り、本堂など全てが焼失し、以後、そこに久宝寺は再建されることはなかった。焼失の際、太子の作と伝えられる本尊の十一面観音像は寺僧が助け出し、これを背負い、伊賀の国に逃れた。その後、伊賀、近江の国々を流転し、久宝寺村に里帰りし、この念仏寺に程近い許麻神社の境内に小堂(久宝寺観音堂と呼ばれた)を建て、十一面観音像を祀った。明治初年の神仏分離令で、この観音堂は廃寺となり、観音像は布施高井田の長栄寺に預けられたが、明治の末頃のはやり病の祈願のため、村人のたっての願いで、1909年(明治42年)当寺に迎えられ、現在に至っている。】ということです。
夏の境内って感じですね。
合掌です。
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そのお向かいが,パンフレットを頂戴した,寺内ふれあい館です。
ボランティアさん? 市の方? 「町歩きですか?」って尋ねていただきました。
そして,古い町家などを散策して行きます(暑かったけれど)。
道標や・・・白壁の蔵や・・・昔ながらの狭い道ではありますが・・・。
久宝寺にはお城もあったのですね。城址です。
北口地蔵尊です・・本当に東西南北にお地蔵さんが・・・。
また,町並みを散策です。
今口・・さっきの古口と対をなすのでしょうね・・・地蔵尊です。
ここには大坂夏の陣の名残が残っていました。
さて,続いて・・・札の辻地蔵尊へ・・・。
さらに,東口地蔵尊です。
さて,ほぼぐるりと回りました。
大水路や再び顕証寺さんの前に来ました・・・。
割濠沿いに・・・許麻神社の方に向かいます。
そして久宝寺駅へ・・・前をあるくオジサンは・・・和傘です。
さて・・・会場はホテルニューオータニでした。
いきなりの近代都市って感じですが・・・。
さて,汗を引かせて・・・・お仕事です。 |