2010.7.9.

大学コンソーシアム岡山の用事で,午後から山陽新聞社のカルチャーカレッジへ。

帰りに・・・今週は,もう庭瀬ウィークって感じで。またまた,庭瀬です。
 
元々・・・庭瀬往来(鴨方往来)で・・・なんとここは庭瀬港だったそうです。
そういえば,古い民家も・・・

【庭瀬は、近世まで足守川とその支流を利用した船運が盛んに行われており、地区内に張り巡らされた堀・水路を水運等に活用し、水郷のまちとして発展してきた歴史を有しています。さらに陣屋町を東西に貫く庭瀬往来(鴨方往来)は、近世山陽道とも結ばれていることから、陸路と水路の交わる交通の要地であったといえます。1600年代中頃の寛文年間の左の絵図によれば、絵図の下方に描かれている足守川の河岸には、瀬戸内海を航行する船が出入りし、足守藩の年貢米の積出港としても重要な機能を有していました。この河岸で積荷を海船から小船に積替えて旧庭瀬港(内港)に入ります。そこには、港町が形成され、庭瀬藩の商業・交通の中心地として栄えました。水路に面しては雁木(階段状の船着き場)が設けられ、入港する船のため木造で大型の常夜燈が1700年代に建てられていました。明治24年に山陽鉄道(現在JRの山陽本線)が開業して以降は、船の往来も減少し、昭和30年代には水路も半分ほどの幅までに埋め立てられ、また常夜燈も昭和29年の暴風により被害をこうむり、すべて取り壊されましたが、その基礎(地伏石)は原位置で保存されていました。庭瀬・撫川地区の堀や水路による町割り、城跡や家屋の街なみの景観保全を目指す住民運動は、これまで活発に行われており、その盛り上がりを受けて、当時の古写真や地元の方々の記憶をもとに、埋め立てられていた旧庭瀬港(内港)を部分的に再現しました。また、当時の常夜燈の石積護岸の一部と約3メートル四方の基礎(地伏石)を使用して常夜燈を再建し、当時の旧庭瀬港(内港)の景観を平成19年に復元しました。】って書いてありました。
 
こんな天秤石も・・
  
で。常夜灯もあります(って,これは3年前くらいに出来たようですが)
それに,それに・・・こんな道標も・・。
ただ・・・この橋の内側はもともとは庭瀬城らしいですね・・・大手門の橋だとか・・・。
 
水郷の町です。