2010.7.8.
日本免疫毒性学会運営委員会で渋谷でした。
で,どうせ日帰りで,倉敷での仕事はほとんど出来ないなら・・朝一番で,向かって・・
「ちょっと寄り道」,「ブラ@タケミ」っていうかk「テクテク俱楽部」です。

今日は,池上の寺巡・・・本門寺中心に・・です。

都営浅草線の終点,西馬込でおりて・・少し歩くと・・・

まずは,本坊本行寺です。
いろいろと文化財も・・・
今日は,歩いた順番です・・・で,ここは・・・
【当山は日蓮大聖人御入滅(ごにゅうめつ)「御臨終」の霊場であります。日蓮大聖人は今より七百余年前の弘安(こうあん)五年九月八日、九ヶ年の間住みなれた身延のお山をあとにされ、病めるお身体をくりかげの馬にゆだねられ同月十八日、ここ池上宗仲公(むねなかこう)「鎌倉時代の工匠(こうしょう)」の館にお着きになられました。病重く療養につとめられておられましたが、一時小康を得られるとお弟子、信者の方々に「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」の御講義をなされましたが、病いよいよあらたまり、十月八日には、本弟子六人[日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持]を定めて、後事を託し、十日にはお形見を分けられ、翌日には十四歳の経一丸(きょういちまる)[後の日像上人]へ京都開教を遺命され、枕元に大曼陀羅本尊(だいまんだらほんぞん)を掛けさせ、十三日の辰の刻[午前八時]、お弟子、信者一同が静かに法華経(ほけきょう)を読誦する中、御入滅なさいました。御年六十一歳であります。この時、大地は揺れ動き庭の桜が一度に時ならぬ花をつけたと伝えられます。大聖人の滅後、宗仲公は館を寄進して寺とし、「長崇山本行寺」と称し、大坊と通称されました。この後入滅になられたお部屋の跡に建てられたお堂を特に「ご臨終の間」とよび、昭和十一年三月、東京都の史跡に指定されました。堂内には立正安国論を御講義される時に寄り掛かられた「お寄り掛かりの柱」を始め、中央に大聖人自ら鏡を見て御自刻された「自鏡満願の祖師像」並びに「池上宗仲公御夫婦像」等を奉安し、御入滅の当時を今にしのばせております。】だそうです。
でもなかなか,境内も広いし・・・
「小さなたぶ 池上の寺めぐり・・・朗師講スタンプラリー」って冊子には・・・
「住職からのメッセージ:大門寺から見ると奥の院といえる存在。大坊坂を下り山門をくぐると心が和む」って書いてあります。
「大坊」ってのは,支院,末寺を代表するってらしいっす。
確かに,結構,大きく広い境内ですし・・・。
池上という地名ですが・・【日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。】ってことですね。
  
花も咲き,その中で沢山の御墓などもありました。
   
ここは大坊坂です。
  
梅雨で雨の予報でしたが,結構,良い天気・・で暑い!

この赤い宝塔は・・・メインの本門寺のものですね・・。
非常に堂々とした塔です。
そして,その奥には・・・紀州徳川家の墓所がありました。

あまりこうやって他のお家の墓を眺めるのも・・・でも,歴史は感じられます。
なんだか,やはり,さすが徳川家って感じですよね!
色鮮やかな紫陽花を愛でながら・・・
  
      
さて,坂を上ると・・・本門寺大堂の裏手に出ました。
 
大きな伽藍です。
教蔵,霊宝殿などもあります。
仁王門も堂々としております。本当に!
大堂も非常にしっかりしています・・で,門の方に行かずに・・日蓮聖人の御聖骨をおさめた御廟へむかいます。
紅葉坂を横にみて・・です。
こっちは,寺務所などもありますが,広い!
中央の八角堂が日蓮聖人の御骨を納めてあります。
    
ただ,案内板は・・・
 
でも,両方は日朗聖人と日輪聖人ですね。
この辺りは・・・・訪れる人も少ない感じです。
苔とか石とかが,静謐を伝えます・・・遠くに廟が見えました(後に向かいます)。
遠くに五重塔が見えていますね。
さざれ石・・・・は,君が代ですが・・・石灰岩です。
さて,また境内に戻って,鐘楼の近くです。
いい響きがしそうです。
古い鐘も,置いてありました。
   
常唱堂を過ぎて
    
仁王門です。
仁王門のそとは木々に風鈴が・・・涼しげな音色で響いていました。
長榮堂があります。
本門寺を守護する長榮大威徳天をお祀りするお堂です。
さて,総門の方へいったん降りてみます(なんか逆行だけど)。
  
なんと,加藤清正が寄進した石段だそうです。
 

降りたところには,総門もありますし・・・理境院があります。
長いですが【元享年間 (1321~24) の創立。開山大経阿闍梨日輪。初め久成院と称し、崇安寺と号した。延宝年間に理境院妙浄日貞尼の寄進で堂宇を整備し理境院と改称。池上塔頭三院家の一。戦災で庫裡を焼失、昭和29年再建。宗祖自作、日輪感得とされる大黒天が、門前向側 (現在の宗務院の地)に祀られていたが、戦災で大黒堂が焼失、現在大黒天は本門寺長栄堂内に合祀されている。また本門寺常唱殿の日朝像は当寺より納めたという。本尊は台座下裏書によると、此尊像は元来西土教主阿彌陀悌とある (年代不祥)。しかし、寛保元年(1741) 8月15日彼岸の時、通玄院日憲 (34歳) が施主となり、師である長興長栄両山25世守玄院日顗聖人を点眼者として印契を造改し、三界独尊南無釋迦牟尼佛となられたと記されている(厨子には日顗聖人直筆の題目並に花押あり)。また、祖師像は台座の下書きによると慶應2年(1866) 谷中大雄寺の日観聖人が施主となり唐白檀にて彫刻され、同年11月18日、長興長栄両山60世妙慈院日運聖人によって開眼されたとある。なお当院の祖師像は当院17世十如院日因聖人の代、宝暦年間 (1751~1767) に宗近なる者が、祖師の木像に御衣の施主となって寄進して以来、以後御衣を着するに至る。慶応3年、官軍の江戸城攻撃に際し西郷吉之助の宿舎となり、また明治11年には小学校校舎として堂宇を使用した。現在の池上小学校の前身である。28世舜是院日如は村松海長寺47世へ。47世大慈院日珖は片瀬龍口寺6世へ。境内庭園は一月から二月は梅花並に葉牡丹が美しく、裏庭他の錦鯉も見事。】っていうか,夏も見事なお庭です。
住職からのメッセージは「どうぞご自由にお参りを,南無をしたならゆっくりと,お庭を見てからにこりと,笑って行こう次の寺。思いのままに人生を。だそうです。
ちなみに【南無(ナム)とは、サンスクリット語のナマス(namas)およびナモー(namo)の音写。意訳すると、帰命、帰依という意味、つまり命を捧げる、それほど大事に敬うという意味がある。浄土宗及び多くの浄土真宗系列宗派では阿弥陀仏に南無を付けて南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ、浄土真宗本願寺派では、なもあみだぶつ)と称え、日蓮宗では南無妙法蓮華経と唱える。真言宗では南無(または、南無大師)遍照金剛(へんじょうこんごう)、禅宗では南無本師釈迦如来大和尚(ほんすしきゃじらいだいおしょう)、南無本師釈迦牟尼如来(ほんししゃかむににょらい)と唱えることがある。】だそうです。
   

さて。本門寺の総門です。
坂の上下に,案内板もありました。
もう一度,登って右手には日蓮聖人説法像がありました。
丁度,なんか工事中でしたけれど・・・。
看護婦の慰霊などもありました。
 
そして,この墓地には・・由緒正しそうな墓が一杯です。
五重塔が見えてきました。
慶長13年(1608)の建立だそうです。
こんな墓碑銘も・・・。
 
【佐伯 矩(さいき ただす、1886年9月1日 - 1959年11月29日)は、日本の医学博士で、栄養学の創始者、栄養学の父である。医学から栄養学を独立させ、栄養研究所、栄養士制度を発展させた。自分で料理をすることはほとんどなかった。栄養は保健・経済・道徳の基本をなすと「栄養三輪」を唱えた。。著書『栄養』では、栄養学だけでなく食糧政策にも言及し、魚類を重んじ畜産は小動物にすべきとしている。】
だそうです。
なんか,お墓見物みたいで恐縮ですが。。。でも,由緒がありそう・・・。
そして,力道山のお墓もありました。僕はリアルタイムでは観てないですが・・・・。
  

大田区民会館の一番上のテラスです。
モニュメントの上に鳩が・・じっとしていると同化しているみたいです。

 
【当院に奉安する開運除厄妙見大菩薩は、寛文四年(1664)に、肥後之守加藤清正公の息女、瑶林院殿が夫君の紀伊国太守亜相源頼宣卿の現世安穏後生善処のために、本門寺へお納めした室町時代の御尊像です。 元禄2年(1689)、本門寺第22世妙悟院日玄聖人の時代に、それまで鎌倉にあった「宝筺(ほうきょう)学室」をこの地に移し、「南谷檀林」という名の僧侶の学校を作りました。その時一宇を創立してこの御尊像を安置、檀林の鎮守としました。 以来、全国各地から集まって南谷檀林で学ぶ僧侶が朝夕ご宝前に祈請を凝らし、帰依の近在近郷の善男善女も増加して、その霊応妙験は四隣に響き渡りました。明治初年に南谷檀林は廃檀となりましたが妙見堂は今に残り、例年、冬至星祭りには、終日読経の妙音が長栄山にこだまし、連なる参詣者に大変賑わいます。 毎月15日がご縁日で、参詣者は、読経唱題に行を積み法話に耳を傾けます。】だそうです。
紫陽花が一杯でした。
    
石段を降りてみましょう。
   
左右に鮮やかに紫陽花がが咲き誇っています。
この青がいいですね・・・。
季節が,やはり紫陽花を美しくしています。
さて,お寺めぐりに入りましょうか・・・。

   
久遠林は・・永代供養塔で,照栄院さんが管理だそうです。
  

照栄院さんです。
【照栄院は朗慶山と号し日蓮宗に属す池上三院家の一つです。昔は「向林庵」あるいは「南谷檀林立善講寺」とも呼ばれていました。日蓮大聖人の高弟日朗聖人は大聖人の滅後、鎌倉において布教に勤めていましたが、文保2年(1318)、74歳のとき、退隠を決意 池上南窪の地に草庵を結びました。照栄院の濫觴です。日朗聖人は76歳で没し、その後、草庵は荒廃に帰しましたが、嘉吉年間に日鏡聖人が出て再興を果たしました。大田区立池上会館の庭に日朗菩薩草庵之地の碑、その左手に朗師坂、朗師坂の上には御墓、そして照栄院本堂に元和7年(1621)造立の日朗菩薩座像があります。】だそうです。
そうか,妙見堂もこちらのお寺なんですね。
   
元禄元年(1688)、池上本門寺第22世日玄聖人は、照栄院の地に南谷檀林を開創しました。檀林とは僧侶の学校の名称です。現在の池上小学校、池上会館から照栄院の地に至る一帯に講堂、方丈、玄頭寮、板頭寮、首座寮、所化寮、玄文両談合場、食堂、総門、妙見堂などを備えていました。】とのことです。
端正に整えられたお庭でした。

続いて・・・養源寺さんです。
【2009.9.12★ハロ!プロ縁日at池上養源寺●2009年夏の締めくくりとして、“ハロ!プロ縁日at池上養源寺”を開催致します!!10:00~17:00の間は敷地一面がハロー!プロジェクト祭り♪各店でご好評いただきました「ハロ!プロ縁日」ゲームコーナーや、“スーパーボールすくい”を楽しめます!焼そば・カレーライスなどお祭りならではの飲食コーナーも設置!もちろん、開催記念生写真も物販コーナーで販売いたします!そして、Berryz工房全メンバーも来場して盛り上げてくれるよ♪参加券が必要になるので、お忘れなく!!!ぜひ遊びに来てね☆】いやぁ・・・びっくり。
そこから,角のお地蔵さんを曲がって・・・・


妙雲寺さんです。
【元和年間長勝寺と同じ智雄院日正聖人により開創・小湊誕生寺の末寺となる。守護神として若宮八幡社(堤方神社)を勧請したのもこのころかと思われ,のちに妙雲寺が別当となる起因となった。庚申塔は青面金剛と三猿が「見ざる,,聞かざる,言わざる」の謹慎態度を示して浮き彫りにされたもので,水をかけて祈願すると足腰が丈夫になると伝えられている】そうです。

また角のお地蔵さんを回って・・・めぐみ坂へ
  
【「めぐみ教会」はこの地で温泉が発見され明示19年,料亭「曙楼」が立てられて多くの政治家や著述家が訪れたが,太平洋戦争直前に廃業。昭和20年,大森めぐみ教会と幼稚園がが新井宿から移転】ですって。
  

堤方神社がありました。
【古くは八幡神社とよばれた。明示初年の神仏分離以前は妙雲寺住職が別当として祭祀を勤めていた。明示43年近隣の三所神社・十二神社,稲荷神社などを合祀し堤方神社と改称する】だそうです。

 
お向かいには法養寺さんです。

さて,また,本門寺の境内に戻ってきました。
【池上本門寺は、日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。毎年10月11日・12日・13日の三日間に亘って、日蓮聖人の遺徳を偲ぶ「お会式法要」が行われ、殊にお逮夜に当たる12日の夜は、30万人に及ぶ参詣者で賑わいます。そして池上本門寺は「日蓮聖人ご入滅の霊場」として700年余り法灯を護り伝えるとともに、「布教の殿堂」として、さまざまな布教活動を展開しています。】だそうです。
【『500個の風鈴の音を聴く』イベント(イキイキ推進委員会) 7月4日(日)~18日(日) 風鈴は自然と繋がるメディアです。池上本門寺の境内に吊された500個の風鈴により、風が奏でる壮大な音の空間を通して、自然と人の繋がりを感じてください。風鈴は人と繋がるメディアです。みなさんが短冊に願い事を描いた風鈴が共鳴することにより、人と人の繋がりを感じてください。※期間中は不定期で短冊に願い事を描くワークショップを開催しますので、ぜひ境内にお越しください。○期間:7月4日(日)~18日(日)○会場:池上本門寺 仁王門付近・境内○入場料:無料○主催:『500個の風鈴の音を聴く』委員会、イキイキ推進委員会】ちょうど,この時期だったのですね。
それにしても,堂々とした伽藍で,圧倒されます。
大堂は日蓮聖人の七回忌(1288)に建立だそうです。
   
そして,池上廟・・は,日蓮聖人が御逝去された池上宗仲公の館ということから・・・この境内内にあるのですね。
   
宗仲,宗長京大は鎌倉幕府の御家人だそうです。

さて,もう少し・・・また西馬込に行くまで・・・お寺めぐりです。
  
南之院です。
弘安5年に日蓮聖人直弟子最長老の日照聖人の庵質として開創だそうです。

次は,厳定院(ごんじょういん)さんです。
正応2年に本門寺二世,日朗聖人の直弟子,厳定院日尊聖人が開創だそうです。

西之院です。
日蓮聖人滅後40-50年頃の開創だそうです。

真性寺です。
帝釈天が安置されています。寛永2年ですから,江戸ですね・・・本門寺16世,日遠聖人によって,麻布今井町に開創,この帝釈天像は,元々,徳川家定のの侍医佐竹文好のやしきになったものが遷されたそうです。

さて,最後に実相寺。
【天文19年 (1550) の創立。開山是好良薬院日経。天文19年江戸馬喰町に法華山実相寺として創立、明暦3年浅草新寺町矢先に移転。文化3年焼失。大正12年池上妙玄庵と合併、現在地に移り、堂宇を建立。妙玄山と改称。妙玄庵はもと要玄院と称し、妙玄坊とも呼ばれた。池上24世妙玄院日等の庵室で、享保12年 (1727) 10月大坊坂の傍、南の方角に創建。日等は池上紫衣初祖、法流は妙玄庵法縁と呼ばれたが、近来樹下庵法縁と合併して芳師法縁と呼ばれるようになった。実相寺は寛保3年 (1743) に呉服の巨商大丸の下村正啓が江戸へ進出以来その帰依をうけ、大丸寺と呼ばれた。大丸は江戸進出を二度失敗したが、三度目に東京駅八重洲口に出店して成功した。】だそうです。
【16世制心院日性は池上41世へ。25世謙光院日慎は池上74世へ。27世慈光院日円は真間弘法寺72世へ。28世慈摂院日健は真間弘法寺76世へ。29世恵光院日慈は真間山弘法寺80世・池上82世へ。】だそうです。
【平成14年本堂、山門が大田区重要建造物に指定される。書院では月一回寺子屋が開設され、法話の会、伝統芸能の勧賞会、クラシックコンサートなどが行われている。書院の壁面には村上豊画伯の「仏の世界」が描かれ、檀信徒や寺子屋参加者の目を楽しませている。尾上松助の墓碑、横綱梅ヶ谷の墓碑がある。】なんですって。

さて,会議に渋谷へ向かいましょう!

合掌!