2010.6.1.
岡山テクノサポートで岡山県産学官連携センター運営委員会でした。
(今日は,本当は創立記念日で臨時休日だったんですけれど・・・)
オルガノンやコンソーシアムなどでよくお出会いします商大の太ア先生が代表をされてます。

さていつものテクノサポートですが,今日も好天です。
 
そして噴水とか・・・前庭の様子は,本当に・・・誰も見ている人も少ないのに・・・水が噴き上がり続けても居ますが・・清涼感溢れます。
お約束っぽいですが,この金属のモニュメントには相変わらずスニーカーがぶら下げてあります。
っていうか,このスニーカーも含めて作品かな?
空の青に浮かぶ白い雲はいいですね。
で,棟の中には,備前焼のレリーフなども・・・。


さて,今日の「ちょっと寄り道」ですが・・・
  
高松城址です。
行ってみて気付いたのですが。。こんなに整備されていたとはっていうか,初めて訪れたかも?
【城の形式は梯郭式平城で、石垣は築かれず土塁によって築城されていた。城の周囲は低湿地帯でこれらが天然の堀を形成していた。築城時期ははっきりしないが、松山城主・三村氏の命により三村氏麾下の石川氏が築いた城である。天正3年の備中兵乱で石川氏が主家三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、清水宗治が城主となった。清水宗治は備中兵乱の際、石川氏の娘婿・重臣でありながら主家を離れて毛利氏に加担したが、清水宗治が城主となった経緯は不詳である。石川氏滅亡以前より宗治が城主であったともいわれる。】です。
豊臣秀吉による水攻めで有名ですよね。【天正10年(1582 年)織田信長の家臣・羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、4月、高松城攻めにかかった。高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落を誇っていたため、攻城戦は持久戦となった。5月8日に入り軍師・黒田孝高の献策により城を堰堤で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえるものが開始された。これにより低湿地にあった高松城を水没させようというものである。世に言う「高松城水攻め」である。人夫に過分な金子を与え突貫工事で11日後に堤防が完成。折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ城は見事に水没した。】
この碑は・・・【高田馬治 たかた-うまじ1882‐1968 大正-昭和時代の教育者,郷土史家。明治15年12月25日生まれ。昭和22年母校岡山県立高松農学校の校長となり,獣医師の養成と畜産の振興につとめる。豊臣秀吉の水攻めで知られる高松城の研究と史跡保存につくした。昭和43年2月3日死去。85歳。岡山県出身。】・・・です。
結構,天候不順な5月だったですが,6月に入って,漸く清々しい晴れた日になりました。
歴史は【ここに信長を招く準備をしていたが、6月2日本能寺の変が起こり計画は頓挫した。翌日、光秀の毛利軍への密使を秀吉軍が拘束。密書で信長の死を知った秀吉軍は毛利軍に知られぬよう密使を暗殺してこれを秘匿し毛利方の外交官・安国寺恵瓊を仲介役に和議を成立させた。城兵の命と引き替えに6月4日宗治は切腹。秀吉は主君の仇敵・明智光秀と対決すべく「中国の大返し」を行い、強行軍で近畿に引き返した。この落城の後、宇喜多氏の家老・花房氏が入城。関ヶ原の戦いで花房氏は主君に反し東軍に付いたため江戸時代には旗本に取り立てられた。数年はここに陣屋を構えたが備中国阿曽(今の総社市阿曽)に移ったため高松城は廃城となった。】と伝えています。
この蓮は・・・・・・とのことです。
こんなにいい場所とは,本当に知りませんでした。気持ちいいです。
岡山市のHPでは【高松城はかつては深い堀と沼沢地に囲まれた毛利氏の堅固な要塞でしたが、織田信長の命を受けた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の水攻めにあい、城主清水宗治の自刃とともに落城しました。本丸跡には宗治の首塚があり、現在は歴史公園として整備されています。周囲には水攻め堤防跡蛙ヶ鼻や太閤腰掛岩が残ります。また、公園内にある資料館ではさまざまな資料が展示されています。】と紹介されています。
日本史で初めて習った頃は,讃岐の高松と混同したりした記憶もありますよね!
これが資料館ですね!

何よりも広がる田畑と・・・空の青と,緑と・・・爽やかな風が一番です!
この漢詩を書かれた書家は【大原桂南(1880〜1961)瀬戸内市邑久町下笠加に生まれる。岡山師範学校で書を学び、磯山天香・加納星南に師事した。邑久高等学校などの講師を歴任し、生涯を書道教室に尽くした。大正11年に黄微書道会を創設し会長となる。近藤雪竹の教えを受ける一方、中国古文字を学び、「金石法帖」の研究をし、独特の書風を樹立した。記念碑の揮毫も多く、山陽新聞の題字は有名。岡山県文化賞、山陽新聞社賞などを受賞。瀬戸内市名誉市民】です。
  
元々も湿地帯だったとかで,今の公園もそんなアレンジですよね。
  
さて・・・会議に向かいましょう!