2010.5.20.
おかやま生体信号研究会・・・いつの間にか(っていうか,medical由来だから)副会長なのですが・・・
今日の午後は,コーディネーターの湯浅氏,高野氏と企業訪問です。
総社地区の企業さんへの入会の勧誘です。
   2社訪問でした。 
そして,総社から初めてJR吉備線で・・・・岡山です。

総社駅からは私鉄の井原線も出ています。
吉備線のホームへ降りる階段・・・
 
そして,橙色の車両でした。
       
JR吉備線:総社→岡山の様子です(車窓の風景)。  備中高松駅には,こんな案内板も・・


夜は岡大鹿田キャンパスにて「メディカルテクノ岡山」の役員会・・・こっちも一応副会長ですが;・・・

会長は公文先生です。
  
まだ黄昏時の岡大病院前です。
  

さて,この様な過程でしたが・・・まずは伯備線で総社へ
高梁川には,山陽自動車道,新幹線,そして井原線の鉄橋がありました。
そして総社の市の名前の通りの,「総社宮」です。
あいにくの曇天ですが・・・敬虔あらたかです。
【總社(そうじゃ)は、岡山県総社市総社にある神社である。正式名称は「總社」であるが、地元では一般的に「総社」「総社宮」もしくは「総社の御宮」と呼んでいる。また、他地域の総社・総社宮と混同を避けるため、頭に「備中国」や「備中」を付ける名称も用いられる。】だそうです。
なんだか池の緑に吸い込まれそうです。
広い境内ですね!
【古代、国司が各国内の神社を巡拝していたのを効率化するために各国の国府近くに建てたといわれる、国内の神を集めた総社の一つ。備中国の総社にあたる。創建は定かではないが、大化から平安末期ではないかと言われる。建立以前は、延喜式内社野俣神社(沼田神社)があっといわれる(現在も総社宮境内にある)。】ですって。
そして【室町時代には戦災にあい、社殿が焼失。1429年に再建されたとされる。天正年間に再び焼失。後、貞享4(1687)年に再建。彩色二四季の絵馬が奉納される。これにより商家の信仰が増し、豪商の西戎屋等が京都の一流画家の描いた絵馬を奉納するなどし、繁栄を極めた。】となったそうです。
鯉も結構太っていました。
【周辺は門前町・宿場町として発展。後の総社市の礎を築いた。各地の総社は多くが衰退している中、現代もその姿を維持している唯一ともいえる数少ない総社である。 現在では、祭られている祭神の数や社殿規模などでは、全国の総社で最も大きい。 そのため総社市の重要文化財に指定されている。また前庭の三島式庭園は古代の様式を今に伝えており、後楽園が築造される際に参考とされた。ちなみに総社市の地名はこの総社宮から来ている。】ってことですよ!
いろいろと境内内の神社も多いですね。
次々と風景が巡っていくのは日本庭園式だからかしら??
   
【かつての吉備国の中心地域で、吉備分国後は備中国の国府がおかれ、国府が廃れた後も備中国の総社が今に残る。総社市総社地区は備中国総社宮の門前町・街道の宿場町・浅尾藩の陣屋町として栄え、総社宮を中心に町が構成されていたので通称「総社」と呼ばれていた(このころの正式な地区名は八部<ヤタベ>)。これが今日の総社という町の名の起源。】が,総社の歴史です。
鯉はあちこちでまるまるしています。
学問の神様もいらっしゃいます,勿論!
駐車場みたいなところには,こんな像も!
 
メインの参道の横には,古い建物も・・・。
  
水準点は
【水準測量に用いる際に標高の基準となる点のことである。測量法で定められている測量標の一つであり、永久標識に分類される。水準点には国土地理院が基本測量として設置・管理する「〜等水準点」と、地方公共団体が公共測量として設置・管理する「〜級水準点」とがある。水準点は海の潮位や河川の水位を知る水準基標又は水準拠標なども意味し、これらの意味が転じてコンピュータにおけるベンチマークという言葉遣いとして使われるようになった。】なんだそうですね。
これは「まちかど郷土館」です。
なかなか・・・やはり一つにまとめただけあって,広いっす。
【古代 - ヤマト王権に匹敵しうる勢力として古代王国・吉備国が岡山県、広島県東半分、香川県島嶼部、兵庫県西部(讃岐などの四国も支配下にあったという説もある)をその版図としていたが、その中心地が総社にあったとされている。市内には代表的な古墳として全国9位の規模を誇る作山古墳がある。最近では、ヤマト王権は吉備から発祥したものという説もある。 】だそうですよ。
ずんずん行きます。
境内社は,本当に豊富でした。
本当に広いです。
曇り空でしたが,それはそれでよい趣でしょうか?
近くに総社高校がありますが,今は試験中?? 早目に帰っていっている様です。
お参りの方も,結構いらっしゃいました。
【 * 国郡里制のもとでは、総社市域は賀陽郡(「かや」、賀夜など様々な表記あり)・下道郡(「しもつみち」)・窪屋郡(「くぼや」)・都宇郡(「つう」、津宇とも)という郡に属していた。この郡は明治中期まで続くこととなる。* 白村江の戦い(663年)に敗れた大和朝廷軍は、新羅・唐連合軍の侵攻を防ぐために各所に城を築き、その一つに市内の山に鬼ノ城を築いたという説在り。(ただし鬼の城は白村江以前に作られた等、多数の説があり、その実態はいまだ解明されていない。)】なんだって!
そして【# 奈良時代 - 備中国の国府が置かれた。総社市金井戸辺りにあったと言われている。# 室町時代 - 水墨画の巨匠で僧侶の雪舟が出た。* 総社宮周辺は門前町として、さらには宿場町として栄える。】というのが,総社の歴史だそうです。
さて本殿の裏手の方も,境内社や,木々で一杯でした。本当に広い境内です。
【江戸時代 - 備中松山藩領、旗本・蒔田(まいた)氏が文久3年(1836年)大名となり誕生した浅尾藩、岡田藩、足守藩、岡山藩支藩である生坂藩(岡山新田藩)、三須知行所、宝福寺領などが混在し、かなり複雑な統治であった。】というこの生坂藩は,川崎医科大学附属高校のある生坂ですよね・・・今は倉敷市!
総社高校の学生さんたちは,この裏手を抜けて・・・東総社駅に向かっているようでし。
小さな祠もいくつかあって・・・気持ちでは,一杯いっぱいお祈りした感じです。
比較的深い緑のため・・・曇天もまたその密度を濃くしてくれています。
順々に祈りをささげてらっしゃる方もいらっしゃいました。柏手の音が響きます。
池と島を持つ表側?も,なかなか,厳かな雰囲気でしたけれど,裏手も,なんだか所謂ちょっと怖いような神社の裏/杜って感じで,っぽいです。
神社の朱色はこの橋だけでした。

さて,ここまでは往路です。
この後東総社駅から,一旦服部駅まで向かって,湯浅氏・高野氏と合流です。
   
こんな春の小川の雰囲気があって・・・
  
吉備線沿線には,こんな案内版が沢山・・これはいいですね。
さて,列車が来ました。

メディカルテクノの会議が終わったら,ほとんど暮れていました。