2010.3.20.

東京・芝 とうふ屋うかい  にて,小木先生のICOHのPRESIDENTご就任をお祝いする会が催されました。
  
大槻もICOHの中のScientific CommitteeのSecretary General にもなってしまいましたし・・・
何より,こんど4/7-9のISOEAID'10では,小木先生には,Opening Remarkをお話頂きます。
  
MilanoのICOHの時は,遠い舞台にお座りになれれていました。
お集まりの皆さんのお話では,相当,厳しく若い人にもご指導されてらした様です。
記念品・感謝状贈呈は,ICOHのNational Secretaryの産業医科大学・堀江教授です。
沢山の方がお集まりで・・・大槻は,まぁ,1/3くらいは存じ上げていましたが・・・でも,楽しい宴でした。
  
森本先生もご挨拶されてました。
乾杯とか・・・最後は川上先生により一本締めでした。
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さて,東京タワーの直下にこんなお店があるなんて・・・知りませんでした。有名なお店だそうです。
まずは入る前の外回り・・・ですが・・・
広い敷地でもあります・・・・。
中に入ってびっくり・・は,結構,中庭とか,そんな造作も素晴らしく・・・中で豆腐も売っているのでしょうかしら?
お客さんも一杯でした。
会食の部屋から眺める中庭の様子です。
   
屋内もしっとりとしています。
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さてお料理は,「とうふ」中心で,あっさりと上品なお味で,とっても満足でした。


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さて,今回は,のぞみで・・・品川→浜松町から東京タワーの麓までテクテクです。
まずは,増上寺の山門ですか・・・。
その前に,交差点近くの芝大明神へ・・・
それが今日は結婚式! 新郎新婦の姿は見えませんでしたけれど・・・
お庭っていうか,全部所謂2階にありました。
小さいけれど,風情はあります。
あまりお式のお邪魔をしてはいけないと,そそくさと次へ動きました。
 
芝大門の交差点には桜が・・
  
まだ漸く咲き始めって感じですね・・。
増上寺さんの元々は,坊中院でしょうか,この辺りにはお寺さんが一杯です。
いろんな桜だったりしています。
道端に猫ちゃん!
 
増上寺前にも緑の区域が広がっています。

さて,入山してみましょう!
【増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と称する。空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。その後、室町時代の明徳4年(1393年)、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗した。この聖聡が、実質上の開基といえる。】
とのことです。
東京タワー直下で,いろんなところから,タワーも眺めつつの,境内散策です。
いろんな人が来て,植樹したりしているようです。
そしていろんな方々からのご寄進の碑や像などなど・・・。
信心の表れってことでしょうね。
鐘楼も歴史を感じさせてくれます。
   
説明が読めますか?
桜には,少し早かったようです・・・・
様々に信心を形に変えて・・ってことですね。
【中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、徳川家康によって現在地の芝へ移された。風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。
また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。なお、延宝8年(1680年)6月24日に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に斬りつけるという刃傷事件を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。】

とのことです。
  
さて,本殿です。
【大殿:昭和四十九年、伝統的な寺院建築様式の中に現代建築の枠を結集して再建されました。本堂に御座します、ご本尊阿弥陀如来(室町期製作)は、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめています。大殿は、浄土宗大本山としての根本道場をはじめ、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な企画で設計されました。】
と,これはお寺のHPからの情報です。
とこかれでもタワーですが・・・
 
なんとなく圧巻なのが,この千躰地蔵ですね,風車が風に舞っていました。
境内には,神社もあって・・・熊野神社です。
 
【また元禄14年(1701年)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良上野介が勅使饗応役の浅野内匠頭に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという逸話が忠臣蔵のドラマなどで有名である。明治時代には半官半民の神仏共同教導職養成機関である大教院の本部となり大教院神殿が置かれた。のち明治7年(1874年)1月1日排仏主義者により放火される。徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となる。太平洋戦争中の空襲によって徳川家霊廟、五重塔をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けた。東京タワーの建設時、増上寺は墓地の一部を土地として提供している。なお、この付近の町名(芝大門)や地下鉄の駅名(大門駅)に使われている「大門」(だいもん)は、増上寺の総門のことを指す。現在の総門は昭和12年に作られた、コンクリート造のものである。】
などなど,いろんなエピソードです。
【享保元年(一七一六)建立。増上寺門前の町火消しで有名な「め組」の殉難者・物故者の供養のために建てられました。(増上寺山内は寺社奉行・大名火消しであった)】
これも在りました。
【阿波丸事件(あわまるじけん)とは、1945年(昭和20)4月1日にシンガポールから日本へ向けて航行中であった貨客船「阿波丸」が、アメリカ海軍の潜水艦「クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393)」の魚雷3本(4本との説もあり)を受け台湾海峡の平潭県牛山島付近で沈没した事件。】
この碑もありました。父ブッシュ大統領とかが参拝するのもこの関係?
敷地は本当に広いです。さすが徳川の菩提寺!
ここには西向観音さんがいらっしゃいます。
   
【子育て安産に霊験あらたかとされる西向観音にちなみ、子供の無事成長、健康を願い昭和50年より順次奉安されております。毎年4月に大祭、7月には盆踊り大会が開催されます。】
ですって。
奥には,徳川家の霊廟が・・・。
  
この門は旧国宝で「鋳抜門」とよばれ、もと文昭院殿霊廟(六代将軍徳川家宣公)の
宝塔前『中門』であったものです。
【安土桃山時代、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正十八年、1590年)。家康公がときの住職存応(ぞんのう)上人に深く帰依したため、と伝えられています。慶長三年(1598年)には、現在の芝の地に移転。江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。三解脱門(さんげだつもん)、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進などがあいつぎ、朝廷からは存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣(じょうしえ)の勅許もありました。家康公は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。】
このようにして隆盛を極めたのですね。
  
四菩薩像です。
 
裏手に墓地もあって・・丁度彼岸前で何人かはお参りされてました。
徳川家霊廟の中を垣間見ると・・・
しかし,ついつい,タワーにも目が行きます。こっちが見えますか?
そして,大納骨堂です。
【増上寺では、大納骨堂への本骨(全ての遺骨)・分骨(遺骨の一部)の納骨をお受けしております。本堂での法要後、当山僧侶により納骨させて頂きます。【本 骨】・後継者のない方・お付き合いのある寺院(菩提寺)がない方・その他事情のある方【分 骨】・浄土宗檀信徒の方(菩提寺の許可が必要です)】だそうです。
駐車場の猫ちゃん,美人です。
 
裏手に回るとますますタワーも近付いて・・花も満開!
  
そして,宝珠院さんもありました。
  
閻魔様がいらっしゃるそうです。
蛇や・・蛙っていうか蝦蟇ですね・・。
境内でしょうか,池は道路沿いの公園の様な感じですが・・・。
タワー直下ですし・・・。人通りも多くなっています。
さて,こんどは道路を渡って・・・普通に広場っていうか,公園です。
カンヒサクラは満開です。

この正面が,「とうふ屋うかい」さんでした。ちょっと時間をつぶすのに・・タワー下の公園っていうか,でメールチェックです。
 
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帰路は,サンライズ瀬戸でした。
車窓の動画です。

劣等を襲った強風で,熱海〜小田原間で少し停まってしまいまして,岡山駅には1時間少し遅れて到着でした。ここで,サンライズは瀬戸と出雲に分かれます・・・この車両を離すところには,毎回ですが,人だかりで,皆動画を撮っていました・