教室員皆と1日目の夕食の後・・・ブラブラと ブラ@ハイジ(教室名がHygieneです)です。

そこで見つけたのは,市役所でした。City & County Bldg.でして・・・これも歴史的サイトにもなっています。
周辺には図書館などもありました。向かいはたぶん裁判所ですよね。
いわば,SLCの官庁が集まっている辺りです。
  
そして,皆でブラブラ・・・そして,写真を撮ったり・・・・
  

それはまた別の日で・・・・U of Utah からの帰りに・・・また,この市役所の庭なども歩いてみました。
  
この尖塔は本当にどこからでも良く見えていました。
  
ここには,native american の像も・・・
モルモン教徒は、この州の名として「デセレット」をアメリカ政府に提案していた。彼らはアメリカ西部から西海岸までの、総計でアメリカ合衆国の1/6の土地をモルモン教徒の土地として要求していた。しかし、アメリカ政府は「ユテ族」の名から採った「ユタ州」を選び、この要求を却下。1850年に準州、1857年のユタ戦争を経て、1896年に45番目の州になった。】
ということですが,まぁ,アメリカの西部開拓の歴史は,Nativeとの戦いの歴史でもありますしね・・・。
勿論,アメリカ開拓の歴史は,1775年の独立戦争からの歴史でしょうけれど・・・でも,こうやって建造物だけを眺めていると,そこここには,一人ひとりの歴史も刻まれたであろうことに想いが巡りますね。
広い土地があるので,きちんと庭っていうか,そういう処も整備されていますし・・・。
   
【最初に末日聖徒達がソルトレイク盆地に入ったのは1847年の夏でした。大きな塩水湖のある全くの不毛の地でブリガム・ヤング(Brigham Young)という指導者の下に町造りが始まりました。当時既に少数の毛皮商人がソルトレイク盆地に出入りをしていたのですが、誰一人としてここに定住しようとした人はいませんでした。この地がいかに定住に向かないかを知っていた当時の毛皮商人の一人、ジェイムス・ブリッジャーは、ソルトレイク盆地に向かって進む末日聖徒らに「あの盆地でもしトウモロコシが一籠採れたら千ドルあげよう」と言ったそうです。当時のお金で千ドルは破格の額でした。当時の模様が描かれた絵を見るとジェイムス・ブリッジャーの言った事には納得がいきます。本当に全くの荒地だったのです。しかし、末日聖徒達はその不毛の地に灌漑を引き、作物を植え、木一本もなかった荒涼とした地に植樹をし定住を始めました。当時の文献を読むと開拓者の苦労話が多く記されています。定住が始まったその翌年、空が真っ暗になるほど無数のイナゴの大軍に作物が襲われたとあります。苦労して作った作物がイナゴに食べられていく有り様になす術をなくした開拓者達は断食と祈りをして神に助けを求めたそうです。すると遥か西から無数のカモメの群れが現れ、そのイナゴを全滅させ窮地を救った話などは興味をそそります。ちなみにユタ州の州鳥は開拓者達を救った「カモメ」です。ロッキー山脈の中に「カモメ」を州鳥にする州があるなんておもしろいとは思いませんか。 】
というような話も,なかなか興味深いですね。
UTAHは,はちみつなども名産の様でした(お土産などによると),そして,荒野の国立公園などもありますが,でも冬季五輪の開催によって国際都市にもなりましたね。

それでも旅行者として,そういった歴史に想いを馳せることも,束の間かも知れませんが,その土地を訪問した証となるのかも知れません。
ではでは,また,ですね。

今回参加したSOT (Society of Toxicology)は前にもこのSLCで開催されたそうです。昨年もBaltimoreでしたが,ここも何年か前にあったそうです。大きなConvention center があるからってことだけでもなく,何度か巡ってくるのでしょうか??