2010.2.20.

福井大学医学部 日下教授,佐藤准教授にお世話になっています厚労省の班会議で東京でした。

場所は,三田! 田町と浜松町の丁度真ん中辺りの第一京浜沿いです。
で,どうせ・・・朝一番で行っても,ぎりぎりに間に合うように行くにしても,大学始業時間には出発なので・・
朝一番ののぞみにして,東京散策・・・ブラ@タケミでした。
梅と早咲きの桜も見つけました。

結構快晴でしたが・・・富士は霞の向こうです。
今回は,目黒です。目黒駅からまずは行人坂を下っていきました。
   
その途中に大円寺さんです。
【天台宗大円寺がある。この寺は、江戸の初期、元和年間(1615年から1624年)に湯殿山の行人、大海法印が建てた大日如来堂に始まると伝えられている。山門を入るとまず目につくのが、境内左手のがけに沿い幾段にも並ぶ石仏群である。初めてここを訪れる人はその数の多さに目を見張ることだろう。釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る520体ほどの石仏像は、昭和45年、都有形文化財に指定されている。】
という由緒です。
これはすごいっす・・都会の真ん中とは思えない。
とろけ地蔵も・・・有名だそうですし・・・
【大円寺(だいえんじ)は、東京都目黒区下目黒にある天台宗の寺院。山号は松林山。本尊は釈迦如来。大黒天を祀り、山の手七福神のひとつとなっている。この寺は、寛永年間(1624年 - 1644年)湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まると伝えられる。1772年(明和9年)2月に発生した大火(明和の大火・行人坂火事)の火元となった寺であることから、江戸幕府から再建の許可が得られなかった。江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺としてようやく再建された。明治に入り隣接した明王院がこの寺に統合されている。】
でも,このような話もあるのだそうですね・・・。
八百屋お七の逸話にも関連しているのですか・・・。
まだまだ坂の途中です。
 
=======================================
坂を下りると目黒雅叙園ですが・・・。
   
目黒川を越えて行きました。

実は今回目指したのは,目黒不動!

1986年に八カ月医科研で研修していて・・目黒はうろうろしていたのに・・・縁遠かったのです。
目黒不動の滝泉寺の周りにも海福寺さんや羅漢寺さんもありまして・・・
===============================================
さて,お不動さんにたどり着きました。快晴の中・・・広い境内で,お参りの人もたくさんです。
山門の前ですね・・・。
さぁてお参りしましょう。
【瀧泉寺(りゅうせんじ)は、東京都目黒区下目黒三丁目にある天台宗の寺院。山号は泰叡山(たいえいざん)。不動明王を本尊とし、一般には目黒不動(目黒不動尊)の通称で呼ばれる。江戸五色不動の一つ。江戸三十三箇所第33番札所。関東三十六不動第18番。「目黒」の地名はこの目黒不動に由来する、とする説もある。青木昆陽の墓があることでも知られる。】
ということです。
阿吽が・・・・優しい犬の姿です。
 
石段手前の境内にもたくさんの碑やいくつかの不動などが,ありました。順に観させていただきましょう。
本堂ですね・・・。
【寺伝では大同3年(808年)に慈覚大師円仁が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して開創したという。東国には円仁開基の伝承をもつ寺院が多く、本寺の草創縁起もどこまで史実を伝えるものか不明である。1615年に本堂が火災で焼失したが、1624年徳川家光によって再建され、以後徳川幕府の庇護を受け繁栄するようになった。文化・文政の時代に「江戸の三富」と呼ばれた富籤(とみくじ)が行われていた(他は湯島天神、谷中感応寺)。寺名の由来となった、境内の独鈷滝(とっこのたき)を浴びると病気が治癒するとの信仰があった。江戸時代には一般庶民の行楽地として親しまれ、江戸名所図会にも描かれている。また、落語の目黒のさんまは、この近辺にあった参詣者の休息のための茶屋(爺が茶屋)が舞台だとされる。】
なのだそうです。
裏手に回ると大日如来像がありますが,傷みよけか,鳥の害よけか,緑のネットの中でした。
広い境内ですし・・・本当にたくさんの方・・・僕の様に,東京地図を片手の方なども多かったです。
そして,墓地には,青木昆陽の墓があるそうですので・・・お参りしてきました。
 
【江戸日本橋小田原町(東京都中央区)の魚屋・佃屋半右衛門の1人息子として生まれる。浪人として京都の儒学者である伊藤東涯に私淑して儒学を学ぶ。江戸町奉行所大岡忠相組与力加藤枝直(又左衛門)と懇意で、享保18年(1733年)に加藤推挙により忠相に取り立てられ、幕府書物の閲覧を許される。享保20年(1735年)『蕃薯考』(ばんしょこう)を発表した。江戸幕府8代将軍徳川吉宗は、すでに西日本では飢饉の際の救荒作物として知られていた甘藷(サツマイモ)の栽培を昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させている。この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島において薩摩芋の栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評される。元文元年(1736年)には薩摩芋御用掛、元文4年(1739年)には御書物御用達となり、昆陽は薩摩芋栽培から離れて幕臣になる。寺社奉行となっていた忠相の配下に加わり、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・三河など徳川家旧領の古文書を調査し、家蔵文書を収集して由緒書を研究。昆陽は収集した文書を分類して書写し、『諸州古文書』としてまとめられた。原本は所有者に返却され、家蔵文書の重要性を説き保存を諭している。紅葉山火番を経て評定所儒者となりオランダ語の習得に努め、弟子には『解体新書』で知られる前野良沢がいる。明和4年(1767年)書物奉行を命ぜられたが、明和6年(1769年)流行性感冒により死去、享年72。昆陽の薩摩芋試作が関東における普及の直接の理由なのかどうか、佐藤信淵の指摘(後述「昆陽と佐藤信淵」を参照)に見られるように疑問視する説もある。だが、昆陽が同時代に薩摩芋によって名声を得ていたことは事実である。後世“甘藷先生”と称され、墓所の瀧泉寺(目黒不動)には「甘藷先生之墓」がある。また、甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽は芋神さまとしても祀られている】
だそうですね・・確かに日本史でお名前は存知ていましたが・・・・。
サツマイモが,供えてありました。
 
丁度目黒不動の裏手にあたって・・・公園がありました。
近くの保育園の子供たちでしょうか? 境内との境の辺りで遊んでいます。
そして,梅が盛り・・・青空をバックに綺麗に咲いています。
花はいいですね・・・。
梅は咲いたかぁ・・・桜はまだかいなぁ~~
  
さて,不動さんの方へ戻りましょう。境内には,他にもいくつかの仏像が並んでいます。
微笑・・・そして愛染明王です・・・。
   
本堂が青空にくっきり・・・・。
境内の中をうろうろと・・・みたいに,それぞれの像を拝んで行きましょう。
【境内は台地と平地の境目に位置し、仁王門などの建つ平地と、大本堂の建つ高台の2段に造成されている。仁王門をくぐると正面に大本堂へ至る急な石段がある。石段下の左方には独鈷の滝(とっこのたき)、前不動堂、勢至堂などがあり、右方には書院、地蔵堂、観音堂、阿弥陀堂などがある。
●仁王門 - 三間一戸の朱塗りの楼門で、昭和37年(1962年)再建の鉄筋コンクリート造である。
●野村宗十郎銅像 - 仁王門を入って左手にある。野村宗十郎(1857 - 1925)は、築地活版製造所の社長で、日本に明朝体活字を普及させた人物である。
●独鈷の滝 - 本堂へと登る石段下の左手に池があり、2体の龍の口から水が吐き出されている。伝承では、慈覚大師円仁が寺地を定めようとして独鈷(とっこ、古代インドの武器に由来する仏具の一種)を投げたところ、その落下した地から霊泉が涌き出し、今日まで枯れることはないという。
●前不動堂 - 独鈷の滝の左方にある宝形造朱塗りの小堂。江戸時代中期の建築で、東京都の有形文化財に指定されている。
●勢至堂 - 前不動堂のさらに左方にある宝形造の小堂。江戸時代中期の建築で、目黒区の有形文化財に指定されている。付近には甘藷先生(青木昆陽)碑、北一輝碑、本居長世碑などがある。
●大本堂 - 急な石段を登った先の一段高い土地に建つ。入母屋造に千鳥破風をもつ大規模な仏堂で、昭和56年(1981年)再建の鉄筋コンクリート造建築。傾斜地に建っており、室生寺金堂や石山寺本堂のような懸造(かけづくり)風のつくりになっている。
●大日如来像 - 大本堂の背後にある露座の銅製仏像。膝前で印を結ぶ胎蔵界大日如来像で、天和3年(1683年)の作。
●青木昆陽墓 - 本堂裏手の道を右方へ進んだ先の飛地境内の墓地内に立つ。青木昆陽(1698 - 1769)は江戸時代中期の儒者で、サツマイモ(甘藷)の栽培を普及させた人物として知られる。墓は簡素な墓石に「甘藷先生墓」と刻まれたもので、昆陽が生前に立てさせたものという。国の史跡に指定されている。】

こんな風に説明されていますが・・・。
とにかく,たくさんの塚や像や碑や・・。
所せまし・・・に近い感じで,備わっています。
それぞれにでも歴史もあり,そこには衆生の信心の重さですよね・・。
こんな松も・・。
   
円の行者の像も・・・
表の急な石段ではなく,脇に・・・女坂です。
 
紅梅も・・・
観音堂や阿弥陀堂の一角に進みます。
こちらにも梅!
青空が背景で巣と,余計に美しく感じますね。
そして・・・薄桃色の・・・観音堂の前です。
心が洗われるように・・・

咲いて散りゆく花を

愛でましょう
この一角は,少し落ち着いた感じのよい佇まいですね。
社務所もこちらの様です。
梅に酔いましょう。
 
さて,再び境内に入って・・・プラタナスを横目に・・・水かけ不動から滝に・・・。
古い不動堂も・・。
すべてに信心をよせていくという感じです。
  この滝は枯れていないってことです。
さて,ここから西の方角にも,いろんな碑や像などがたくさんですので・・・急ぎ足ですが,巡ってみました。
【北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)、明治16年(1883年)4月3日 - 昭和12年(1937年)8月19日)は、戦前日本の思想家・社会運動家。本名は北輝次(のちに輝次郎)であるが、中国の革命運動に参加し中国人革命家との交わりを深めるなかで、いつしか中国風の名前「北一輝」を名乗るようになったという。右目は義眼。このことから「片目の魔王」の異名をとる。】
って知りませんでした。
【1885年(明治18年)東京府下谷区御徒町に生まれる。国学者として著名な本居宣長の6代目の子孫に当たる。生後1年で母と死別。養子であった父が家を出たため、やはり国学者であった祖父、本居豊穎(もとおり とよかい)に育てられる。祖父の期待に反して音楽家を志すようになり、1908年(明治41年)東京音楽学校本科を首席で卒業、日本の伝統音楽の調査員補助として母校に残る。なお、同期にやはり作曲家となる山田耕筰がいる。1909年(明治42年)器楽部のピアノ授業補助、翌1910年(明治43年)にはピアノ科助教授となり、ピアニストを志すが、指の怪我で断念。このときの教え子に中山晋平や弘田龍太郎がいる。1918年(大正7年)「如月社」を結成。この如月社で本居長世の作品を独唱したのが美しいテノールの音色を持つバリトン歌手増永丈夫である。増永は東京音楽学校声楽科出身で、慶應義塾普通部のころから本居長世のところに出入りしていた。増永丈夫は藤山一郎の本名。また、本居長世は宮城道雄や吉田晴風らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索した。折から、鈴木三重吉による児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、従来の唱歌に代わる「童謡」と呼ばれる新しい歌が人気を博していた。これに呼応し1920年(大正9年)中山晋平の紹介によって斎藤佐次郎による児童雑誌『金の船』より『葱坊主』を発表。同年、新日本音楽大演奏会で発表した『十五夜お月さん』は、長女みどりの歌によって一躍有名となり、 以後野口雨情等と組んで次々に童謡を発表する(みどりは童謡歌手の第1号となり、童謡歌手のレコード吹き込み第1号ともなった)。その後、次女貴美子(後に三女若葉も)等とともに日本各地で公演を行った。1923年(大正12年)関東大震災により甚大な被害が発生すると、日系米国人を中心に多くの援助物資が贈られた。その返礼として日本音楽の演奏旅行が企画され、本居長世も2人の娘等とともに参加し、アメリカ合衆国各地で公演を行った。1945年(昭和20年)肺炎により死去。】
この碑には,「十五夜お月さん」が・・・譜面とともに,刻まれていました。
そして,山手七福神・・・稲荷さんなどもあります。
神社も一緒なのは,昔ながらですが・・・。一応,分けてあります。
   
そこで,こんなのを見つけました。
 ___今日はこの七福神を巡る散策になりました。
再び,境内!
  野村宗十郎の像です。  
ちなみに
【生年: 安政4.5.4(1857.5.26) 没年: 大正14.4.23(1925) 明治期中ごろから大正期の印刷人。長崎に生まれ,本木昌造の新街私塾に学ぶ。明治期から昭和初頭にかけ,活版印刷の興隆に大きな貢献をした東京築地活版製造所に明治22(1889)年入社,その後支配人,社長として,金属活字の品質の向上,書体の改良,さらに印刷機械を含む各種の印刷機具類の製造整備に努めた。印刷書体の「築地体」として名高い明朝体の数多くの改刻の実施,明治期末から大正期に新聞や書籍に本格的に使用されるようになった和文ポイント活字の創始と普及,国字国語について文部省の国語調査会委員を務めて字体や可読性の調査研究を行うなどの業績がある。】
だそうです。
さて,だいたい回りましたね・・・。
さて,山門を後にしましょう!
 
==============================================
羅漢寺や海福寺さんを抜けて・・・・
  
====================================
【■蟠竜寺(ばんりゅうじ):行人坂にあった称明院が、宝永6年(1709)に現在地に移され、改名再建されたお寺。本尊の阿弥陀如来像は、東京都の重要文化財に指定されている。音楽・弁才・財福が授けられると信仰される石像の弁財天。岩屋弁財天は、本堂の右手の岩窟の中に安置されている。現在では、岩屋の弁財天はいつでも拝観することができるが、弁天堂の弁財天は、七福神巡りの時期しか拝観することができない。】
ですが・・・まぁ,境内を・・
こじんまりとしたお寺さんですね。
梅も・・・ここでも・・・
でもなんだか落ち着いて静かでよかったです。
 さて,次へ・・・  
====================================================
目黒通りと山手通りの角には・・大鳥神社!
その横の大聖院さん・・・
キリシタン灯篭ですね・・

====================================================
そして大鳥神社です。
【御祭神 主祭神 日本武尊やまとたけるのみこと,相殿神 国常立尊くにのとこたちのみこと:※日本の国開きの神様です。弟橘媛命おとたちばなひめのみこと:※日本武尊のお妃さまです。
景行天皇の御代、当所に国常立尊を祀った社がありました。日本武尊は景行天皇の皇子であり、天皇の命令で熊襲を討ち、その後に東国の蝦夷を平定されました。この東夷平定の折、当社(大鳥神社)に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らん事をお願いされたところ、首尾よく東夷を平定し、部下の目の病も治って、再び剣を持って働く事ができるようになったので、当社を盲神と称え、手近に持って居られた十握剣を当社に献って神恩に感謝されました。この剣を天武雲剣と申し、当社の神宝となっております。当社の社伝によると、「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る」とあり、大同元年には、社殿が造営されました。当社の社紋が鳳凰の紋を用いているのはこのためです。
また、江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。尚、この江戸図に記載される社は九社しかなく、当社は江戸九社の一つにかぞえられております。】

だそうです。
この日もご祈願の方がいらっしゃいました。
境内はそれほど広くないのですが,神楽殿もありますし・・・。
ここにも隠れ切支丹灯篭が・・・。
  
 さて,再び目黒川を渡って,目黒駅の東側へ・・・ 
----------------------------------------------

今度は妙円寺さんです。
しっとりとたたずんでいるお寺です。
【江戸時代初期元和元年(1615)の開創。妙見大菩薩像は、霊験あらたかなことから「開運妙見」とも呼ばれ、地域の人に親しまれている。福禄寿と寿老人の像が祀られているのは、本堂右手の妙見堂。妙見大菩薩を中心に、寿老人、福禄寿が両脇に立っている。】
です。
========================================
次は瑞聖寺さんです。
こおはとっても大きな御堂です。
【寛文11年(1671)に完成した黄檗宗の寺院。本殿にあたる大雄宝殿は、宝暦7年(1757)に再建と推定されている。東京大空襲の被害にあった東京で、江戸時代から残る仏教建築としては、貴重な存在であり、国指定の重要文化財にも指定されている。
布袋像は、この堂宇の右側の仏壇に祀られている。】

なるほど,確かに古い大きな建物です。
 
ここから白金小学校の方〜八芳園の方へ出ます。
    
そこは・・・桑原坂で・・・小さなお稲荷さんも鎮座していました。
  
===========================
そして七福神最後・・・覚林寺さんです。
【地元では「清正公」という愛称で親しまれている。名前のとおり、加藤清正公ゆかりの、日蓮宗の古刹。清正公の守護仏である釈迦牟尼仏を本尊とし、境内に清正公を一緒に祀っている。武人の誉れ高い清正公にあやかり、「人生のさまざまな苦悩に打ち勝つ」というご利益を求める人が多く訪れる。毘沙門天は、山門を入った左手のお堂に安置されている。】
です。
そして・・・・今度は,桜です。
早咲きの品種でしょうか? 今年の東京は寒い冬だったと思います思いますが・・・・。
気分は春です。!

歩いて良かった!
さて,桜で気持ちが一気に昂ったってことで・・・七福神を後にして・・・・・
============================
目黒不動からここまで歩いたので・・・時間も大丈夫そうなので・・・三田まで歩きましょう!
この辺りは坂が一杯です。

そして,京浜道路沿いには・・・。