2010.2.10.

東京築地の国立がんセンターで科学技術振興調整費「アスベスト関連疾患への総括的取り組み」班の運営委員会でした。
   
土屋院長先生は所用にて,急遽欠席でしたが,例年になく多くの先生に集まっても頂き・・
また,ディスカッションも非常に実りの多いものになった印象でした。

ありがとうございました。

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さて,今日は新幹線です・・・でも,沿線は雨〜曇り・・・浜名湖の辺りは晴れていました。
 

品川→浜松町→大門(大江戸線)で,築地市場でいいのですが,少し早目の列車でしたので・・「勝どき」まで乗車!
がんセンターまで,北へ向かいます。

まずは,「勝鬨橋」です。
【勝鬨橋(かちどきばし)とは、東京都中央区にある隅田川に架かる橋。晴海通り(東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線)が通る。日本では珍しい可動橋(跳開橋)であるが、現在では機械部への電力供給も無く、可動部もロックされ、跳開することはない。近年、再び跳開させようとの市民運動や都の動きはあるものの、機械部等の復旧に莫大な費用(約10億円)がかかること、また現在は多数の道路交通量があることから、実現の目途は立っていない。】
ですよね・・・。有名です。
そして,その可動橋=跳開橋の名残が,途中の信号にも物語られています。
詳細には・・・・歴史として・・・
【明治期より架橋の計画は何度かあったものの実現せずにいた。1905年(明治38年)1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として有志により「勝鬨の渡し」が設置された。築地と、対岸の月島の間を結ぶ渡し舟である。埋め立てが完了した月島には石川島造船所の工場などが多く完成しており多数の交通需要があったことで、1929年(昭和4年)「東京港修築計画」に伴っての4度目の計画によりようやく架橋が実現することとなった。建設当時は隅田川を航行する船舶が多かった。このため陸運よりも水運を優先させるべく、3千t級の船舶が航行することを視野に入れた可動橋として設計され、跳開により大型船舶の通航を可能とした。高架橋とする案もあったが建設費が安く済むため、可動橋案が選定された。勝鬨橋の工事は1933年に着工し、1940年6月14日に完成を見た。1940年に「皇紀2600年」を記念して月島地区で開催予定であった国際博覧会へのアクセス路とする計画の一環でもあったため、格式ある形式、かつ日本の技術力を誇示できるような橋が求められた。そのため、アメリカ等から技術者を導入せず、全て日本人の手で設計施工を行った。結果的に博覧会は日中戦争の激化などもあって軍部の反対により中止されたが、勝鬨橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得た。当初から路面電車用のレールが敷設されており、1947年から1968年まで橋上を都電が通行していた。設置当初は1日に5回、1回につき20分程度跳開していた。この頻度はほぼ1953年頃まで続いたが、船舶通航量の減少と道路交通量の増大により次第に跳開する回数は減少し、上流に佃大橋(開閉機構を持たず桁高も両岸堤防ぎりぎり)が建設された1964年以降、船舶通航の需要は乾倉庫にほぼ限定され、開閉回数は年間100回を下回るようになった。1967年には通航のための最後の跳開が行われた。その後は年に一度ほど試験のため跳開されていたが、1970年11月29日を最後に跳開されることはなくなり、1980年には電力供給も停止された。】
だそうです。本当に,成るほどって感じですね・・・。
でも,僕も名前は知ってましたし・・・今日,ついつい渡ってみました・・・。
郷里近くの天橋立には・・・跳ね上がって開くのではなく,回転して船を通す橋もありますが・・・・こっちは規模がでかいっす
 下は隅田川 
そして,築地川には,隅田川テラス・・そして,はとば公園です。
橋の北・西の袂には・・勝鬨橋の記念館もありましたが・・・また,行ってみましょう!
 
向こうには,月島川(って運河ですけれどね)・・・の水門も見えます。
その横の住友のビルの横にも,緑地帯が・・・。

そして,ここは・・・昔の月島の渡しだったそうです。今もポンプ場が・・。
  

そしてここは・・・公衆電気通信の曙の地だそうです。
  

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そして,あかつき公園ですが・・・聖路加病院のそばですね・・。
   
さすがに聖路加のそばですね! っていうか,シーボルトの像の由来の土地に聖路加が建ったのかな?
医学医療関連ですね,まさに!
 
そして,梅を見つけました。
日当たりによるのでしょうか・・・咲き誇っている木も・・・
  
   
そして,こんなモニュメント・・・大好きな感じですね・・・。
   
冬でも花壇はきれいにしてあるし・・・子供たちも遊んでいました。
    
健康の小道・・・・って,大槻はムリ
 

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さて,この辺りからがんセンター向きに進みますが・・・。
こんな旅館とか・・・そして築地本願寺とがんセンターが良く見えます。
 
築地川・・・って今はたぶん道路とかの下なのか,もう失われたのか・・・ですが・・公園がありまして・・。
そこに欄干だけ残っている橋が・・・。
 
「備前橋」です。・・・備前と云えば岡山藩???
【岡山藩の中屋敷は築地にもありました。築地はその名が示すように、明暦の大火(1657年)後に湿地帯を埋め立ててできた地区で、海岸・堀沿いに町屋が設けられている他は、築地本願寺の周辺に旗本屋敷が集まる以外、ほとんどが大名の屋敷地となっていました。岡山藩邸は本願寺と堀を挟んだ北東向かい、築地地区のほぼ中央に位置しており、現在でも藩邸を囲む道がそのまま残されているため、藩邸の場所がはっきりと特定できます。広さは約1万6000uで、海岸に近く、藩邸前に掘があったことから、蔵屋敷としての役割を持っていたものと考えられます。当時は藩邸の前に堀があり、対岸との間に「備前橋」という橋が架けられていました。言うまでもなく、備前藩邸の前にあることから付けられた名称です。昭和60年ころまでは、掘割の一部が築地川として残り、備前橋も橋として機能していましたが、その後川は埋め立てられて公園となり、備前橋も片側の欄干と親柱を残すのみとなっています。】
そうなのですね・・・成程です。
  
では,その築地本願寺へ・・。

さぁさぁ・・・そろそろ会議の時間です。
向かいましょう!!