2010.4.24.
橿原市の奈良県立医大の厳橿会館で,第20回日本病態生理学会でした。
会長の高木先生は,昨年7月に大槻が主催した第18回日本臨床環境医学会に演題を出していただいて,図らずも大槻は会長賞に選ばせていただきました。
また,昨年11/20に住居医学の筏教授に呼んでいただきましてセミナーをさせていただきました際にも,来て下さっておりました。
元々,岡山の方なんですよね・・
で,参加してみました。----いい感じのポスターです。
これくらいの規模の会館があると100人前後の集まりに良いですね・・・。

高木会長は,ランチョンでもご講演されて・・・で,閉会のご挨拶では,スタッフ一同をご紹介されて・・これはいいお心配りでしたね・・。
特別講演はピッツバーグ大の泌尿器・薬理の吉村先生でした。
  
ピッチバーグはミネソタからベセスダに移る時に通過しましたっけ?
そうそう,日本臨床環境医学会ではないですが,東海大の坂部先生とそこで働いていて今は秋田の大学院生の松井先生・・
日本臨床環境医学会関連で,親しいお二人とは出会いました。
松井さんは,発表も!
   
そして,参加証には,「せんとくん」登場です。
そうそう,奈良は平城京遷都1300年記念の年です。
 
奈良らしい・・・お茶やランチョンのお弁当でした。
  

高木先生,楽しい心温まる学会でした。先生のホットでウォームなお人柄そのままでした。感動!

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学会の会期は22-24日だったそうですが,分子予防環境医学研究会に行っていましたので,23日の夜に橿原に着きました。
朝には,テクテククラブ(ブラ@タケミ)でした。
橿原の西の今井町の辺りです。
飛鳥川です。
まずは,今井町の北側で・・・蘇我入鹿・・なんて案内が普通に出てくる歴史ですが・・・。

【蘇我入鹿の木造坐像を神体とする。現在の橿原市周辺は蘇我氏ゆかりの地であり、「蘇我」、「曽我」といった地名も残る。小綱町の隣の曽我町には、蘇我馬子が創建した宗我都比古神社があり、蘇我氏の始祖を祀っている。明治時代に、皇国史観に基づいて逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、祭神をスサノオに、社名を地名からとった「小綱神社」に改めるように政府から言われたが、地元住民はそれを拒んだという。日本書紀に基づいた「蘇我氏逆臣説」が日本史に通説となっている今に至るまで、地元の人々から崇敬を集めている。境内には神宮寺としてかつて仏起山普賢寺があり大日如来が祀られていた。神仏分離の際に普賢寺は廃寺となったが、建物と本尊の仏像は残されて成等山正蓮寺の管理となり、「大日堂」という名称で現存している。大日堂および大日如来木像は国の重要文化財になっている。】
っていう処です。
いやぁ・・・歴史ですよね。
そして大日堂です。
普通の民家の建ち並ぶ中に・・・ぽつねんとあります。
その感じがまた,歴史ですよね。

この辺りは,溜池が多いのでしょうか? 桜池です。遠くは葛城山・金剛山ですよね・・きっと。
    
池の端に・・・

そして,そのそばには・・・今度は柿本人麻呂です・・・う〜ん,日本史です。
【柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ、男性、660年頃〜720年頃)は、飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。また平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。】
ですよ!
【彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。人麻呂の歌は、讃歌と挽歌、そして恋歌に特徴がある。賛歌・挽歌については、「大君は 神にしませば」「神ながら 神さびせすと」「高照らす 日の皇子」のような天皇即神の表現などをもって高らかに賛美、事績を表現する。この天皇即神の表現については、記紀の歌謡などにもわずからながら例がないわけではないが、人麻呂の作に圧倒的に多く、この歌人こそが第一人者である。また人麻呂以降には急速に衰えていく表現で、天武朝から持統朝という律令国家制定期におけるエネルギーの生み出した、時代に規制される表現であるといえる。】
だそうです。
 

北妙法寺池です。

街角のお地蔵さんとか・・・そして,中学校には「せんとくん」の幟が・・・・。
  

そして,今井町の・・・まずは,八幡神社ですが・・ここは小さなお社でした。
土地に根差した神社って感じです。
  

しかし,この辺りから,今井町の古い街並みが現れる処になります。
その西の端ですが,まずは今西家住宅があって・・・そのそばに春日神社です。
 
【今西家(城郭を思わせる八つ棟造りの堂々たる構え):竜王山城主、十市兵衛遠忠の一族で、1566年に入町し、もとは川井氏を名のっていましたが、三代目から今西姓になりました。惣年寄の筆頭として町の司法権、警察権を与えられました。棟札によると慶安3年(1650年)の建立です。外壁の白い漆喰の塗り込み、屋根の本瓦は惣年寄ならではのもので、複雑に入り組んだ入母屋造り(八つ棟造り)は、桁行き15.9m、梁間13.8m、一部2階。内部は片側が広い土間で、部屋は六間取りです。今井町の西口にあり、その西側は環濠となっています。重要文化財にも指定され、わが国の民家建築史上貴重な建物です。】

この辺りの旧家には表札も出ていましたから,今も実際に住まれてらっしゃるのでしょうね。
春日神社・・・というのは,沢山ありますね・・この辺りには・・
11月にも畝傍駅横の春日神社に参じました・・・春日大社から派生しているのでしょうかしら??
ここは,なかなか落ち着いた佇まいの良いお社でした。
境内社も沢山あります。
学会や出先の会議に明け暮れていると,こういう空間に見を置くだけで,気持ちが穏やかになりますね。
敬虔な気持ちってまで意識はしませんが・・・でも,何かを信じて行くって必要かも?
それほど広い境内ってことではないのですが・・・そこここに色合いが異なっていて,それもまたいい感じです。
鹿も祭られているのかしら? 奈良らしい? 像がありました。
奉納された絵っていうのでしょうか・・・それも飾ってあります。
ちょっと正門から入らなかったって感じでしたけれど,御容赦ください。

この辺りからは,旧家の建ち並ぶ辺りを進みます。

そして,称念寺さんです。
【今井町は、この寺の境内地に発達した寺内町です。本堂は近世初頭に再建されたもので、外廻りに角柱を並べた大規模真宗寺院の特徴をよく表した建物で、屋根は大きな入母屋造本瓦葺で東面しています。付属建物も数多く存在し、明治10年、天皇の畝傍御陵行幸のとき行在所となりました。】
だそうです。
【称念寺(しょうねんじ)は、奈良県橿原市今井町にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は今井山。本尊は阿弥陀如来。今井御坊とも称される。この寺は、天文年間(1532年〜1555年)石山本願寺の家衆であった今井豊寿(河瀬入道兵部房)が立てた念仏道場に始まり、川井氏(後の今西氏)と共に周辺に濠と土塁を形成し寺内町の体裁を整えていった。織田信長により武装解除されてからは、自治都市として栄えた。1877年(明治10年)には、この寺に明治天皇が立ち寄っている。寺の所在する今井町は重要伝統的建造物群保存地区に選定され、町内の8軒の民家が国の重要文化財に指定されている。】
です。
明治天皇のご行幸のこと・・そして,ちょっと崩れの見える本堂の修復については,新聞記事も掲示されていました。
   

またまた,古い街並みです。
【中橋家(商家としての代表的建築例):切妻造り、本瓦葺きで、南側に庇がついた町家。江戸時代には、「米彦(米屋彦六)」という屋号で、何代にもわたって米屋を営んでいました。この家は、称念寺の斜め向いに面し、18世紀以降の文書を比較的多く所蔵し、天保から嘉永にかけて、称念寺に経料を納めた記録もあります。幕末には繁栄していたことがわかります。今井町における商家の形式をよく伝えており、一口のカマド跡も見られ、建築史上でも貴重な建物といえます。18世紀以降の文書類を多数所蔵していることでも知られています。】
だそうです。
醤油屋さんもありましたが,大槻の母の実家は一時期醤油屋で,小さい頃には,行くと,醤油樽の並ぶ大きな倉庫がありました。

公民館や街並み交流センターのある開けた処にでますと・・・
  

そして,こんな小さな祠ではないですね,やはりしっかりとした神社です。
【高市御県神社: 四条町の北部、今井町との境に鎮座。祭神は 高市県主の祖天津彦根命と高皇産霊神。近世に 苔の宮・高県(こけ)の宮・高木(こうき)の宮と称したことから、 「延喜式」神名帳高市郡の「高市御県神社名神大、月次新嘗」 に治定。高市御県神社は大和六処御県神社 の一で(「延喜式」月次祭祝詞)、御県は朝廷直轄領 にあたる。大同元年(八〇六)に神封二戸があて られ(新抄格勅符抄)、天安三年(八五九)一月二七 日、従五位下より従五位上に昇叙(三代実録)、 「延喜式」神名帳によると御県の神のなかで唯一 名神祭にもあずかった。高市県については「古 事記」神代巻に「天津日子根命者高市県主等之祖 也」とあり、「日本書紀」天武天皇元年(六七二)七 月条に「高市県主許梅(こめ)」の名がみえる。所在は明 確ではないが、現曾我町字宮毛説が有力で、現 橿原市の西部地域に推定されたいる。「延喜式」 神名帳高市郡には高市御県坐鴨事代主神社 (現橿原市雲梯町の河俣神社に比定)の名がみえる。 文政二年(一八二九)津田長道の著した「卯花日 記」には、「今井里人高木氏は、世々四条村の人 にして、今は今井に家居す。此家にむかしより 此社の事つかさどる事になりて、別に神主もな ければ、此家より神供灯明のことを物しける。 高木の宮と云也といへり」という記述がある。】
だそうです。

そして,明治風の建物は,交流センターになっているようです。

これはこれで・・青空によく映えています。
「せんとくん」も,あちこちで頑張っていますね。

さて,学会も終了して,大和八木から鶴橋に向かうのですが・・・駅までの道々も・・・やはり,古い建物が多くありました。
倉敷もそうですが,お住まいになってるとご不便かも知れませんが・・・・
旅行者としては,よいイメージです。単純に,昔を懐かしむ感じで・・・(すみません)。
   

大和八木駅から・・・
11月に歩いた耳成山や吉野の山も見えます。

はい,倉敷に戻りましょう!