2009.10.05.

富山大学医学部・・・公衆衛生学:稲寺教授に招いて頂きまして大学院セミナーをしに行ってきました。

当日も会議があったので,ギリギリに入ったし・・・翌日は,それでも散策の後,帰学後また会議が待っていて・・・。

さて,街の中心に富山城址があって・・・ただほとんどの敷地が工事中だったのですが・・・。

   

角々,区々に,「ガラスの街:富山」と,硝子工芸があったり,彫刻があったり..........

御堀端です。
 
さて,入城・・・ですね。
 


【天文12年(1543年)に新川郡への進出を目論む越中守護代の神保長職が、家臣の水越勝重に命じて築城したとされるが、近年の発掘調査により室町時代前期の遺構が発見され、実際の築城時期はさらに遡ると考えられている。ただし、神保氏時代の富山城は現在地ではなく、約1キロメートル南方の微高地にあったとする説もある。富山の地は越中国のほぼ中央に位置し、飛騨と北陸道を結ぶ交通の要衝にあたり、松倉城主椎名氏、越後上杉氏、一向一揆等の勢力の争奪の的となり、抗争が繰り返された。慶長5年(1600年)以前に成立の『富山之記』には、神保氏時代の富山城と城下の発展の様子が詳しく記されている。】

とのことです。

博物館も併設されていましたが,閉館中でした。


礎石のいろいろ・・・刻み込まれた文字や記号の説明です。

【天正10年(1582年)織田信長の家臣佐々成政が富山城主となり、大規模な改修を加えた。その際に3つの鯱を持つ5層の天守が建てられた[要出典]。また、神通川の流れを城の防御に利用し、水に浮いたように見えるために「浮城」の異名をとった。当時の神通川は富山附近で東に大きく蛇行しており、その南岸に富山城は築かれた。神通川改修後の旧河道は松川と呼ばれ、今も富山城址の北側を流れる。本能寺の変の後、豊臣秀吉と袂を別けた佐々成政は、天正13年(1585年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に富山城を攻囲されて降伏し(富山の役)、富山城は破却された。やがて越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い隠居したが、慶長14年(1609年)に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には津田刑部義忠が城代として入った。】

だそうです。

櫓後は,佐藤記念美術館です。
  

【寛永16年(1639年)、加賀藩3代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成立した。翌寛永17年(1640年)、利次は当時加賀藩領内にあった富山城を当座の仮城として借りて越中に入った。当初、婦負郡百塚に新たに築城することを予定していたが、財政事情からそれを断念し、万治2年(1659年)に加賀藩との領地交換により富山城周辺を自領とした。万治4年(1661年)、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、あわせて城下町を整え、以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えた。】

でした。


西側の御門は,石垣が残っています。

さて中は工事中で通路だけですが・・。
   

親水公園の方〜松川の方へ向かいます。


ここから,松川沿いには,彫刻が一杯!
市民の憩いの場となってます...ってのも,分かりますね。


ということで,松川のこちらの岸やあちらの岸,彫刻巡りに近い感じで・・・。
散策しました。


【かつて、神通川は富山市の中心部を蛇行して流れており、たびたび大雨で氾濫し、被害が甚大であった。明治時代、神通川の改修で神通川の本流が富山市の西部を直線的に流れることになり、改修前までの流域を周辺の松並木にちなんで「松川」と呼んだのが松川の始まりである。現在は、松に代わって桜が植えられている。周辺には桜橋通り・桜町・新桜町・桜木町のように「桜」のついた町名が多い。】

だそうですよ!


沢山の彫刻です。なかなか・・・次々とって感じで,いいですね。



 
【松川遊覧船は、昭和63(1988)年4月より、富山市中心部・富山城址公園横を流れる松川(旧神通川の名残り)で運航しています。江戸初期から明治後期にかけて、最大の通商路として賑わった神通川の歴史を偲びながら、遊覧を楽しむことができます。松川沿いにはソメイヨシノが460本植えられおり、「日本さくら名所100選」にも選ばれ、多くの方がお花見に訪れます。また、松川べりは、2002年にノーベル化学賞を受賞された田中耕一さんが、かつての神通川を埋め立てた場所にある芝園中学校、中部高校への行き帰りに歩かれたゆかりの場所でもあります(国道41号線は、沿線から4人のノーベル賞受賞者を輩出していることから「ノーベル街道」と呼ばれています)。明治時代には、滝廉太郎が、当時は今の約6倍の広さがあった旧富山城内の小学校(現在の富山税務署のあたり)に約2年間通っていました。】

今度は,乗船してみましょう!

ノーベル街道は・・・。
 

もう一度,お城側の岸へ・・


蒸気機関車がありました。

【高山本線で使用された9600形機関車(大正3年製 9628)が、旧国鉄から無償貸与され展示されている。】
    

お城を眺めて,親水(日庭園式)公園をもう一度歩いて・・・さて,松川沿いに西へ向けて進みました。



 

道1本挟んだ向かいの桜木町は・・・所謂繁華街〜飲み屋さんとかが一杯の町並みです。


優しく,ても力強い女性像とかが,多いですね・・・。



この先で,いたち川と松川の合流点があります。



  

富山の街中を挟んで,東には,立山から流れ込む常願寺川・・・この支流なのか,あるいは元々の本流だったのか・・が,いたち川です。
で,西川の神通川は奥飛騨から流れてきて・・・この元の本流が松川のようです。
ですので,この合流の辺りで,昔は,流してきた木材を拾い上げていたそうです。
  

まだまだ,沢山,彫刻はあるようですが・・・・。


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さて,富山駅へ向かいましょう!

街角の三角地帯に・・・椅子がアートに並んでいました。

富山といえば・・・薬売り・・
【薬種商の始まり :薬種商の始まりは室町時代とされる。中原康富の『康富記』(1455年)の1453年5月2日の条に「諸薬商買の千駄櫃申し間事談合とするなり。薬売るもの施薬院相計る所なり。」と書いてある。また、『御府文書』には1460年に京都の四府賀興丁座の中に薬品類を商いする商人がいたことが記されている。富山で薬種商が始まったのはは16世紀中ごろ、越中に薬商種の唐人の座ができたことである。17世紀初期から中ごろにかけて丸剤や散剤を製薬する専業店が現れる。開業当時は薬種販売のみを行い、それから成薬業に移ったと思われる。】

だそうです。今も軽自動車で時々見かけますよね。


駅前広場には,噴水が沢山。
   

平和の塔もありました。

富山駅です。

富山駅にあった・・・売薬商や雷鳥の像・・・っていうか。
 

帰路もまた特急サンダーバードです。神通川を越えていきます。
 


さて,実は今回,富山の同級生が集まってくれて・・・
一緒に,食事・・・そして,高校の寮では同じ部屋だったこともある片山先生ン家(これがまたすごい豪邸)で2次会まで・・

みんな,本当にありがとう!

 

森田先生,種井先生,片山先生,そしてアレンジしてくれた八木先生!

また富山に行くよ!