2009.11.18.

夜でしたが,岡大医学部で,公文教授のREIC遺伝子の関連の会議に出席してきました。

時を同じく山陽新聞に掲載されていたのですね・・。

希望も持てることですし,また,我々の研究ともリンクすると感じられます。

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帰りに烏城付近・・・

ライトアップです。

 天守閣です。
国の重要文化財・・・月見櫓です。
【岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。 その丘のうち「岡山」に本丸が設けられたことで、城名そして城下町の名の元になった。なお西には「石山」があり、さらに北西には「天神山」の丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたようである。城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城となっている。言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張である。そのため旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用したとされる。さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたともされる。天守は4重6階の複合式望楼型で、特に初重平面形状が歪んだ多角形をしているため、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ安土城天主を模したものではないかと言われているが、羽柴秀吉による大坂城天守を模しているという説もある。その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、隣県の「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることもある。元禄時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿が伺える。明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊された。堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められたが、街路は江戸時代の位置をほぼ踏襲している個所が多い。さらに第二次大戦中、空襲のため天守・石山門を焼失した。現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部が再建された。現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定されている。】

だそうです。

後楽園から烏城への鶴見橋です・・・。
 

そして,旭川を挟んで西側の,天神町〜出石町辺りです。