2009.11.12-13 
      京王プラザホテルで,第50回日本肺癌学会でした。参加してきました。 
       
      
      
      西村講師と大槻で行ってきました。 
      
      
      西村先生のポスターセッションは,関戸先生(愛知県がんセンター研究所)の座長で,井内教授(広島大)もいらっしゃって,和やかに終了しました。 
       
      大槻も発表してきました。主たる仕事は前田先生がして下さった内容です。 
      
      
      座長は,中野先生。青江先生からは御質問を頂戴しました,ありがとうございました。 
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      ポスターセッションの風景です。 
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      次年度は,井内教授が会長,それに,兵庫医大中野教授のiMIGもあります。 
          
       
      ランチョンは・・・さすが京王プラザ??? 
            
       
      眺めも良いし・・・・既にクリスマスモードでした。 
                
       
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      新宿駅周辺は,もう,冬のイリュミネーションが一杯でした。 
      
      
      
      聞こえる街のBGMも,クリスマス仕様・・・・なんだか,でも,ちょっとうきうきしますよね! 
      
      
       
       
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      さて,学会のちょっとした合間に,都庁を超えて・・・新宿中央公園って・・・初めてでしたね・・・行ってきました。 
       
      
      
      あいにくの曇天・・・結構,木枯らしが寒い感じでした。 
      
      
      これは,「新宿ナイアガラの滝」だそうです。 
      結構,レトロな名称で,気に入りました。 
      
      
      その裏手は。。。「新宿 白糸の滝」です。 
      もう,この表裏一体は,絶妙! 
      
      
      いろんな像もありましたね・・。 
      
      
      しかし,本当に結構寒い感じで・・「落葉の舞い散る・・・停車場は〜〜」って停車場ではないですが,ちょっとうら哀しい感じでした。 
      
      
            
        
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      一角に「熊野神社」がありました。 
      
      
      【十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394〜1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます(一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532〜69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいいます)。鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったといいます。江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。また、享保年間(1716〜1735)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。】 
      だそうです。 
      
      
      
      近くでお祭りでもあるのでしょうか?? 
          
      新宿のど真ん中って感じでもなく・・結構,厳かな感じの佇まいでした。 
      
      
      【十二社の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小つの池を開発したもので、現在の熊野神社の西側、十二社通りをへだてたて建つ三省堂ビル・後楽園ビルのあたりにありました。大池(中池・上の溜井)は南北126間・東西8〜26間とされ、水源は湧水であったようです。池の周囲には享保年間(1716〜35)より多数の茶屋ができ景勝地として振るわいました。明治時代以後は、大きな料亭ができ花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形船・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和43年(1968)7月に埋め立てられました。大池の北側に隣接する小池(下池、下の溜井)は、大池の分水で、南北50間・東西7〜16間ありました。昭和の初期より一部の埋め立てが行われ、第2次大戦中には完全に埋め立てられました。】 
      とのことです。 
      
      
      
      【十二社には、記録や古老の話からいくつかの滝があったことが伝えられています。このうち十二社の大滝は、『江戸名所図会』『江戸砂子』などに熊野の滝・萩の滝と記された滝で、高さ三丈・幅一丈と伝えられます。この滝は寛文7年(1667)に神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向け作られた神田上水助水堀が、熊野神社の東端から落ちるところにできたものです。池とともに景勝地として知られたもので、明治時代の落語家三遊亭円朝は自作の『怪談乳房榎』の中で、この滝を登場させています。滝の多くは、明治以後、淀橋浄水場の工事などにより埋め立てられました。】 
      だそうです。 
      
      
      いくつかの碑などもありました。 
      また,神輿の蔵にも結構な数の神輿が・・・・。 
      
      
            
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      さて,もう少し時間があるので,散策を続けましょう! 
      
      
      それほど,紅葉する木々ばかりではないですが・・枯れ木にの幹や枝自体が,季節ですね。 
      
      
      そして,落葉の絨毯・・っていうか,それも季節です。 
      
      
      様々な様子で,それでも季節は・・・11月,木枯らし寒い霜月です。 
      
      
      看板にも・・枯葉が舞い散っています・・・。 
      
      
      雨はこの時にはやんでいました・・・よかったです,でも,学会中,天気はよくなかったですね・・ 
      
      
      本当によく晴れていれば・・澄み切っていれば・・富士まで見えるのでしょうか? 
      
      
      橋を渡って・・・チビッコ広場とかのあるスクエアの方へ・・・。 
      
      
      
      まぁ,それでも秋も一杯でした・・・気がつけばも霜月・・・ついこの間,早すぎる秋を見つけていたと思っていたのに・・・。 
       
      さて,都庁の方に向かいましょう! 
      
      
      モニュメントがいくつか・・・テントウムシも・・・。 
      
      
      
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      宿舎近くの花園神社では・・・深夜まで祭でした。 
          
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