2009.10.2.
翌日の石綿・中皮腫研究会,そして,当日の懇親会のために岐阜入りです。
結構な雨でした。
でも,やはりテクテク倶楽部です。
岐阜駅で降り立ったのは,初めてでした。
金色の信長さまがお出迎えです。これはすごい!
そして,荷物をホテルに置かせてもらって..............アーケード街を歩きます。
彫刻とか・・
のれんっていうのかなぁ???フラッグだそうですが・・・。
岐阜市役所は・・・なんだか,家紋で飾られています。
晴れていれば,金華山にロープウェイして,岐阜城を,って思っていたのですが・・・今日は雨
結構,降っていて折りたたみ傘くらいでは,ズボンの膝以下は,グショグショでした。
ということで,伊奈波神社です。
神社の前境内を進むと,いくつかのお寺さんが,固まってあります。
安楽寺さん__
含政寺さん__
地蔵もあり__ 駐車場などにもなっている広場があり__
善光寺さんです。
そして,伊奈波神社の境内へと向かっていきます。
【御祭神の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)は、垂仁天皇第一皇子にして当地を始め広い地域に直りて池溝を作り、農耕社会の基礎を築かれ人々の生活に安定をもたらしたことから、岐阜の総産土神、又諸願成就の神として親しまれ崇敬されている。御鎮座が1900年以上も前に遡る古社である。】
とのことです。
いやぁ・・・雨が・・でも他にもお参りの方もいらっしゃいましたけど・・・。
【景行天皇十四年、命の偉徳を偲び武内宿禰をして椿原の地(今の岐阜公園丸山の地)に鎮斎せしめ給うたのが始まりで今から約1900年以前のことである。降って天文8年斎藤秀龍(道三)稲葉山を居城とするに当り現社地に遷し奉った。昭和14年11月1日国幣小社に列っせられ、社頭の殷賑は年と共に加わりつつある。】
だそうです・・・。
可也,奥へ,奥へと・・・というところです。
結構,古式あふれる情緒が漂っていました。
雨もまた良しって感じです。
金華山,東に・・というか,その懐に抱えられるように建っていますが,雨も多いのでしょうか?
苔生す様子が,歴史を感じさせてくれます。
本殿のは入れないところには・・・白馬が・・・。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さて,境内社も(濡れついでです)参っておきましょう。
雨に煙る分だけ・・・おごそかな感じや,静謐な感じが湧き立ってくるようです。
ズボンは濡れるは,レンズに雨粒が着くわ・・・やれやれ,寒いし・・・
【由緒 「伊奈波神社に伝わる縁起によると、五十瓊敷入彦命は、朝廷の命を承けて奥州を平定したが、一緒に同行した陸奥守豊益は、五十瓊敷入彦命の成功をねため、一足先に都に帰り、命が帝位をねらっていると讒奏したため、朝敵として攻められて、この地に居たり討伐されたと云う。『日本書紀』によると、五十瓊敷入彦命は茅渟池を造ったり、菟砥の川上宮で剣一千口を造り、石上神宮に納め、神宮の神宝を掌ったとあり、その後、「自分は年をとったので、神宝を掌ることが出来ない、大中姫がやりなさい。」と云ったことになっている。大中姫も出来なかったので、物部十千根大連に治めさせたとある。 墓は、泉南の宇土古墳とされている。 剣一千口を造り石上神宮に納入した時に、十種の品部を賜ったとあり、そっくり美濃の伊奈波神社の摂社に名を連ねている。伊奈波神社には五十瓊敷入彦命が祀られており、近所には妃、御子を祀る神社もあり、品部の神を祀る神社もあるのは、当地での何らかの縁があったものと思わねばなるまい。ともすれな正史とされる『日本書紀』を基本に考えてしまうが、皇位継承者が継承していないとの格段の場合には、正史には一層の警戒が必要だろう。皇位継承者の東国行きの物語は、豊城入彦命、五十瓊敷入彦命、日本武尊と三代も続くし、武渟川別を四道将軍としても派遣している。東国の平定には成功したとなっているようだが、王権としては大古より苦心をして力を尽くしてきた、また現在まつろわないのは反逆である、まつろわしたらそこは王権家の支配下であると『日本書紀』は云いたいのであろう。 旧地は稲葉山(金華山)の麓だったようで、その名残が御手洗池である。 天文八(1539)年、斎藤道三が稲葉山を居城にするに当たり、現地に遷したと伝わる。『延喜式神名帳』美濃國厚見郡に物部神社の名が見える。これも、斎藤道三が稲葉山麓の岩戸にあった物部神社を遷座後の伊奈波神社に合祀したものと伝えられているそうだ。】とのことです。
稲荷神社もありました。
なかなか・・・気持ち洗われる思いでした。
駐車場には,忠魂碑が立っています。
そして善光寺...
さて,手前の講演というか,広場も・・・
芭蕉の句碑などもあって・・・
それでも金華山(稲葉山)に抱き込まれています。
さて少しずつ,歩を進めると・・・・。
古い町並みや・・神社もあって・・・(っていうか,山懐に全て社がありますね)
さて・・・本当ならこの辺りから,ロープウェイの筈だった,岐阜公園周辺に来ました。
岐阜城はガスのかなた・・・
常在寺さん__
妙照寺さん__
そして大仏通だそうです・・・って岐阜大仏って案内がありました。
ここですね。
岐阜大仏(ぎふだいぶつ)は、岐阜県岐阜市の黄檗宗金凰山正法寺にある大仏である。日本三大大仏に挙げられることもある。岐阜県重要文化財指定。
しかし,角度によって表情をお変えになられる大仏さんです。
【釈迦如来の大仏で、日本最大の乾漆仏である。像高13.7m、顔の長さ3.63m、目の長さ0.66m、耳の長さ2.12m、口幅1.31m、鼻の高さ0.36m。周囲1.8mのイチョウを真柱として、木材で骨格を組み、竹材を編んで仏像の形を形成する。この竹材の上に粘土をぬり、一切経、阿弥陀経、法華経、観音経等の経典が書かれた美濃和紙を張り付けて漆を施し、さらに金箔を施してつくられている。経典は当時の住職が読み一枚一枚貼られている。この事から、別名を「籠大仏(かごだいぶ)」という。全身が金箔で覆われ、穏やかな顔とあいまって独特の雰囲気がある。奈良の大仏や鎌倉の大仏と異なり乾漆仏の為、損傷に対して脆いという。この大仏の製作に大仏製作では一般的な銅ではなく竹を使用しているのは、岐阜提灯や岐阜和傘など岐阜の文化が関係してるといわれている。】
だそうです。
結構,心落ち着きました。ありがとうございました。
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さて,岐阜公園です。
歴史博物館前です。
板垣退助が遭難したところだそうです。
「板垣死すとも,自由は死なず」です。
そして・・・織田信長・・・住居跡とのことです。
なかなか・・・巨石を積み上げたり・・・
この辺り,織田家の紋章もいたるところに・・・・。
そして,三重塔があります。
で,ロープウェイには乗らずに,公園の緑の中を散策です。
緑が多いと,雨もまたいいですね。
信長の名残は,至るところにあります。
雨宿りのニャンコです。
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岐阜公園・・・北の方へ向かいました。
こちらには御手洗という池があります。
少し趣が変わりましたね。
悲哀の話が残る池ですね・・。
いろんな碑というかモニュメントというか・・・も建っています。
で,なんか中国風の・・・って思ったら,杭州を模してあるそうdす。
日中友好庭園
公園の中心からやや離れたところにあり、長良川までごくわずかの所に位置する庭園で、岐阜市と中国・杭州市との友好提携10周年を記念して造営された。中国情緒溢れるデザインの門や土塀、庭園などがある。
だそうですよ!!
ちょっと可愛い!
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鵜飼の舟の製作所!
で,すぐのところが長良川でした。
駅から市役所や総合庁舎を抜ける大通りのちょっと東は・・・御鮨街道です。
翌日も含めて,古い商店や,山裾ごとの神社や・・・。
いろいろありました。
歴史です・・・戦国~江戸~明治ですね。
2日目の朝も同じようなコースを徒歩しましたが・・・晴れだしていて,漸く岐阜城が見えました。
岐阜公園界隈・・・前述の常在寺さん__
岐阜公園や三重塔__
そして,帰路でみた神社と・・・
岐阜を後にする時には,やはり,信長さまに見送られました。
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