2009.9.6.
残暑厳しい日曜日・・・大学の用事で福井市に向かう途中下車で,敦賀に降り立ちました。
しばし,散策です。
氣比神宮に向かいました。
ちょっと,裏手から向かう感じになって・・・脇の水路などをみながら・・。
どうも,昨日(9/5)は「氣比神宮例大祭・敦賀まつり」がピークの日で,10日まで後祭のようです。
【北陸随一のイベント『敦賀まつり』。市民総参加のもと、みこしや勇壮な6基の山車が市内を練り歩きます。趣向を凝らしたおまつり広場やカーニバル大行進、民謡踊りの夕べも見もの。街はまさに祭り一色に染まります。「気比神宮例大祭」は9月2日宵宮祭、3日神幸祭、4日例大祭、5日より10日迄後祭、15日の月次祭を以って終わるので氣比の長祭として有名です。境内外には露天興業が軒を列ね、練山引山が出され、期間中は市内各種団体の神賑奉納行事があり北陸一帯はもとより、京都、大阪、滋賀、愛知等、各府県からの参拝者頗る多く、北陸の歴史的年中行事として著名です。3日の神幸祭には御鳳輦をはじめ氏子各町の神輿が市中を巡幸渡御になり市内一円は各種行事で賑わい例祭気分が味わえます。】
で,屋台などが一杯でした。
広い境内ですが・・・また,越前一の宮だそうですが,屋台が一杯で,ちょっと厳か感はないですね・・・。
でも本殿境内は,なかなかの落ち着きです。
中では何か神事の最中でした・・・。
沢山の境内社もあります・・・。
後祭とはいえ,既に沢山の参拝客さんです・・・御祭目当ての子供連れや,バイク野郎たちや・・・も,結構一杯!
この山車/神輿が多分昨日は,街中を練り歩いたのですよね,きっと!
中日新聞より「抜粋」【敦賀市の「敦賀まつり」は最終日の5日、34団体、1745人による仮装行列やマーチングの「カーニバル大行進」が市中心部で繰り広げられた。市内の小中高校生や民謡団体などが、うたげの終わりを惜しむように神楽通りから相生通りをパレード。沿道に集まった大勢の観客は、踊りの熱気や調和のとれた楽器の音色に酔いしれた。今年、市民の手で復活させ、戦後復興や平和にかける思いを歌った「復興敦賀音頭」の踊りも民族舞踊敦賀民舞会によって初披露された。】
裏手は,角鹿神社など3つの社が,ちょっとだけ祭の喧騒から離されて静かにたたずんでおられました。
ちなみに「ツノガ」だそうですが・・以下の様なことだそうです。
【JR敦賀駅に降り立つと、正面の銅像と対面することになる。都奴賀阿羅斯等(つぬがあらしと)像である。敦賀は古代三大要津のひとつであり、笥飯浦(けいのうら)と呼ばれていた。日本書紀崇神天皇の条に、朝鮮半島任那国(みまなのくに)の王子であるツヌガアラシトが来着したという。(AD32年頃)その王子の額に角のようなものができていたので人々は「角額の人」といい、都奴賀とも書き、さらに転じて角鹿(つのが)と記すようになった。恐らく冠か冑の類をかぶっていたものと思われる。その約100年後に角鹿国が定められ、さらに角鹿海直(あまのあたひ)という海事担当の役人が特別に配置されている。大陸に向かって、日本海と敦賀の港が古代より重要視されていたことがわかる。この角鹿が敦賀の地名起源になったといわれ、気比神宮境内摂社にツノガアラシトを祀る角鹿神社がある。さらにこの角鹿神社東側の地区を戦後、角鹿町と名付け、町内にある中学校を角鹿中学校と呼び、この敦賀の地名起源伝説を今日に伝えている。松尾芭蕉は、元禄2年(1689年)に『奥の細道』の道中、この敦賀の地を訪れているが、敦賀の古名の角鹿にちなんだ句を詠んでいる。“ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月”この句は気比神宮境内にある『芭蕉翁月五句』の中に刻まれている。】
なるほど・・・って感じですね・・・これも境内社の様です。
揃っていない狛犬が社の中から,正面を向いて,こちらを向いていたのも,ちょっとおかしな具合でしたが・・・。
祭の方に戻って・・・・
神水苑〜亀の池の方・・・屋台の裏手です・・・を散策!
神社のHPにも「会館」としか書いてないですが,なんだか古そうな絵などが飾って/祀ってありました。
お祭りでなければ,静謐な空間かもしれませんね・・。
敦賀は芭蕉が奥の細道の最後の方で,訪れた町です。
【俳人・松尾芭蕉の『おくのほそ道』。この旅で彼が敦賀の地を踏んだのは、1689(元禄2)年8月のこと。芭蕉にとって、月を見ることは旅の目的の一つでしたが、とりわけ敦賀での仲秋の名月を楽しみにしていたといいます。
8月14日から16日の敦賀滞在で、氣比神宮〜金ヶ崎〜金前寺〜色の浜〜本隆寺を渡り歩いた松尾芭蕉。彼ゆかりの地は今もしっかりと保存され、当時の息吹を現在に伝えています。
あの日芭蕉が見つめた敦賀の景色を、俳人気取りでゆっくりたどってみませんか。】
旧暦でしょうから,ちょうど,今を少し過ぎたくらいでしょうか?氣比神社にも芭蕉の句碑などもありました。
旗揚松とか長命水とか・・・。
入口近くには,また,別の境内社(猿田彦神社)もありました。
眺めると,金ヶ崎公園のある天筒山が初秋の(というよりは,残暑厳しい暑さでしたが)青空に浮かんでいました。
敦賀港の方へ向かいます。
市民文化センターにも,芭蕉の句碑や,名士の像などがありました。
ここは,敦賀の迎賓館の跡地だそうですね・・。
向かいは,「きらめきみなと館」でした。
開港100年のモニュメントが風に映えています。
好天なので,港とは言え,海の青と空の青が,とってもすがすがしい感じです。
海上保安庁の巡視船も居ますが・・・なんせ,日本海向きですし・・・。
旧敦賀港駅舎だそうです。
【とんがり屋根が強烈な印象を残す旧敦賀港駅舎。「欧亜国際連絡列車」の発着駅としてかつて重要な位置を占めていた敦賀港駅舎を、1999年の『つるがきらめきみなと博21』開催時に再現したもの。現在は、敦賀港の歴史や観光のPRとして使用されています。
】とのこと!
気持ちいい,海の匂いです・・。
この辺りは,新規の埋立地の様で・・・緑地公園にもなっています。
穏やかな海面ですね・・・白い雲もゆったりと浮かんでいます。
東側には,金ヶ崎の山・・・神宮や城址,公園になっているそうです。
さて,そこに立っている・・・敦賀ムゼウム・・・
敦賀は昔は,欧州への玄関口・・・そして「命のビザ」で知られる外務官杉原千畝に救われたユダヤ難民の受け入れ口だったそうです。
他にもポーランドの孤児の受け入れ港であったり・・・・
人道の港を記念した館なのですね・・・。
古い港の跡や・・・レンガ倉庫などもあります。
【敦賀港の東側に2棟並んで建っている『赤レンガ倉庫』は、福井県内でも有数のレンガ建築物。外国人技師の設計によって1905年に建てられた当時は石油貯蔵庫として使われ、数年前までは昆布貯蔵庫としても使用されていました。今現在、倉庫としては使用されておりませんが港町敦賀の象徴的建築物のひとつとして有名です。柱の内側に壁を設け、内壁に柱のない空間になっているのが大きな特徴です。】
ということだそうです。
さて,先ほど見ていた金ヶ崎山・・・
金前寺・・・愛宕神社・・・金ヶ崎宮・・・城址があるそうなので,頑張って登ってみましょう!
お寺には・・ここにも芭蕉の足跡が・・・。
で,宮へ向けて,階段を登って行きましょう!
途中には愛宕神社もあります。
氣比神社がお祭りで沢山の人,屋台だったせいか,ほっと落ち着く感じですね・・。
【延元元年(1336年)恒良、尊良両親王を守護した新田義貞が足利軍と戦った古戦場です。戦いは激しさを極め、尊良親王ら300人は籠城から半年後、城に火を放ち自害しました。中腹の金崎宮には両親王が祀られています。小高い山にあるため眺めもよく、桜の名所としても知られています。戦国の時代に信長・秀吉・家康・利家が勢揃いしました。】
との情報です・・・。
なるほど!
境内の中の神楽殿の様なところに,でも,金崎宮と出ています。
あれ,狛犬さんは居たっけ???
いくつか境内社も・・・。
そして,城址から・・・付き月見御殿跡の方へ・・・さらに登って行きましょう!
さっきまで居た港が一望です。
城址です・・・
海の眺めは,それだけで,歴史もなんにも関係なく・・・とっても気持ちよいです。
この天気に恵まれたことを感謝って感じですね。
古墳があったりもするようです・・・。
そして突端の月見御殿
敦賀火力発電所(ちなみにもんじゅ(原子力発電所)は敦賀市内ですが,左(西側)の半島の突端にあります)・・があって・・・
で,敦賀湾が一望です!
気持ちいいい!!
さて,敦賀は途中下車! 福井まで向かわなくっちゃと,息を汗を落ち着かせる間もなく,再度,駅に向かいました。
降りて行きましょう!
ところが・・・5分ほど間に合わなくって,乗車予定の普通列車は既に北陸トンネルの中!
結局,しばらく待って特急「しらさぎ」で福井に向かって,無事,間に合いました。
駅前です。
都奴賀阿羅斯等(つぬがあらしと)像です。
|