追悼 同級生 田坂佳千 先生

平成19年2月11日,同級生である田坂先生が急逝しました。
17日にお通夜があり,18日に広島市の国泰寺で告別式が行われました。

田坂は(同級生の誼で敬称は使いません)僕(大槻)らのクラスのリーダーであり,特待生であり,エンジンであってくれた人材でした。勿論,18歳から24歳という若い世代での学生生活,遊びもし,恋もし,羽目も・・彼はあまり外さなかったかも・・・時には外し,それでも川崎医科大学の創世記の精神を,一番,純粋に真剣に正面から受け止めて,医師であることを突き詰めた人材でした。

卒業後も,僕と同じく大学の付属病院に入り,彼は,病理・総合診療部・そして,呼吸器内科での大学院と,ひとつのところに安住せず,それよりも,無限大の,しかし,一人一人として対峙しなければならない,その時の,また将来の患者さんたちにとって,自分がどのような医師であるべきか,ということについて,全速力で向かっていく姿勢で,突き進んでいました。その後は,本学の家庭医あるいはプライマリィケア医・・・・呼称はいずれであっても・・・診療体系のデモ施設となる奈義ファミリークリニックの所長も勤めた後,実家に帰り,後継として活動を始めました。

1年間はミネソタで米国の家庭医療・総合診療医療の勉強もし・・・その時は,僕もミネソタに居て,少しだけ接点もありましたね。

しかし,本日の葬儀での弔辞にもあった様に,偏に病で苦しんでいる人たちのために,自分が医師として何が出来るか,という点から,医師会の活動,TFCというmailing list での勉強会(と云っても良いでしょうか)などなどに,積極的に自発的に,かつ,重い苦労(本人はそうは想っていなかったでしょうけれども)も厭わず,突き進んできたようです。

最近は,僕自身は,数年前に,広島で大学の今後について少し駅の喫茶店で話しただけでした。学生時代〜大学在籍時代と変わらない情熱のままに,熱く語る田坂を今でも覚えています。

大槻は通夜には伺えず,告別式に参列してきました。思いの外早くお寺に着きましたので,安らかなお顔を参らせてもらいましたし,妹さんの佳子さん(杉原教授の奥様)とも少し話すことが出来ました。

やっぱり彼はあまりにもすべてに真面目に突進しすぎていたのだと想います。僕らも皆,頑張ってます。昔ながらの医学の縦糸として学問体系があり大学があり・・というシステムの中で,同級では,萩原が教授になりましたし,僕もそれなりに頑張っているつもりです。また,何もそういう体系の中ではなくっても,皆,実家へ帰り,あるいは,中には新規に開業して地域の中で,精一杯の医療を実践している仲間ばかりです。それでも,それでも,せめて同じ頑張るにしても,もうちょっと不真面目に頑張ってれば,こんなことにもならなかっただろうにと想うと,言葉を失います。

弔辞や読まれた弔電にもありましたが日本の医療にとっても彼の存在が大きかったとのこと,現在,卒後研修制度の開始や医局制度の崩壊などが,語られている中で,彼は,旧来の縦軸の医学医療システムではない,横糸を紡ぐ様なシステムの構築に最大限の努力をし,評価もされ,国内はもとより,国外で頑張っている医師たちともネットワークを築いて行っていました。しかし,まだまだ,志半ばだったでしょう。勿論,いくつ齢を重ねても,彼の心には熱い理想とする医療への熱情の炎は消えることは無かったとも想います。

それでも,彼は行き急ぎ,活き急ぎ,そして,生き急いで・・・・・・・・・・終には,逝き急いでしまいました。

始まる頃は,どんよりと曇っていて降り出さなかった空も,読経が始まると,あるいは,彼への残された者からのメッセージが読まれると,参列者の肩を濡らしてしまい,そして,出棺の時には,皆の涙を,いや・・敢えて僕は・・・・・田坂自身が,まだまだ,やりたかった幾多のことを残したという事実に悔やんでいることを,天が替わって告げてくれているかのように,大粒の雨が,その棺にも,遺影にも,ご遺族はもとより,参列者の肩にも降り注いでいました。

きれいに送ってやれればよいのだけど,やはり,僕は・・・・この雨は,彼の涙雨,まだまだ彼の求める医療に至ってない現状を,彼は彼自身で打破して行きたかっただろうに・・・そこに,やはりく悔恨があって,それが降らせた雨だったのだろうと感じてしまいました。

多分,それでも,出棺から1時間あまり経つと,安芸の空は晴れ間も覗くようになってきました。季節に留まれない急ぎ足の雲の流れに僕は無念の想いを透かせて,梳かせて,「嗚呼,ならば情念は矛を収めて浄土へ旅立ったか」と,安堵に胸を撫で下ろしながら西広島駅を後にしました。

医学医療の世界ではあっても,例えば僕が立脚している場所は,田坂が張り切っていたところとは異なっているかも知れません。しかし,同級生として,残された僕らは,僕らの精一杯を,今後も為し続けることを誓いたいと想います。

合掌
和やかな彼らしい遺影でした。見るに付け残念無念ではありますが,安らかに眠ってほしいと想います。
田坂は「千の風になって」が殊の外好きだったようです。彼の佳千(よしかず)の「千」の歌です。
葬儀の前後には,ずっと流れていました。
彼の急逝を当てはめるにはぴったりしすぎる歌詞に,涙と共に,どうして・・と,想ってしまいます。
国泰寺さんからは,安芸の瀬戸内が遠望できました。彼の想いは,この広島の地で,根付いて,日本国中に染み渡って行くと信じます。
同級一同で供花をしました。

連絡の付く皆で共同でお供えをしました。
萩原は来れなかったけど,供花してくれてました。 参列者が多くすべての供花などを見切れませんでした,他にも勿論,知己の方で供えて下さっていた方,漏れている場合は御容赦を。
参列者のスナップ(武田・日野・菊岡))ですが,他にも川野・土本・鮫島・頼島(僕は姿を見つけ切れなかった)・小林,そして女子は(旧姓で書くよ)今村・垣見・周防・辻村・南・山口も参列できました。沢山先生,真鍋先生,2級上の中浜先生,あるいは下級生の顔も見ることが出来ました。
本堂の様子と出棺

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そして,田坂の想いが天へと昇るに合わせて,晴れ間が見えてきました。

通夜にも,河田・頼島・川野・草加・小林・柴田・鮫島・日野・河村・橋本・武内・衛藤・土本・山本・・・・等々,集まってくれていたようです。山本君以外は,その後偲ぶ心を男は見せてはいけないってことで,四半世紀の時を超えた会があったそうですね。
様子が分かれば,報告します。